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第4話
近代大阪経済の基礎を築いたスーパー起業家、五代友厚
 
 
文/写真:池永美佐子
 
高さ7.6m。コートの裾を翻し、日本人離れした彫の深い顔立ちで大阪の街を見つめるその姿はガリバーのようだ。五代友厚という名前は知らなくても、北浜にある大阪証券取引所の前に立っている立派な体躯をしたイケメンの銅像といえば分かるのでは?
五代友厚は、この大阪取引証券所や大阪商工会議所を創設した薩摩出身の実業家だ。「東の渋沢(栄一)、西の五代」とも称され、明治以降、大阪の発展に貢献したトップリーダーと言われる。「大阪の恩人」ともたたえられる。にもかわらず、現代の大阪の人たちの記憶には留まっていないようだ。なぜだろう・・・。
 
 
 
 

イケメン五代友厚像
(大阪証券取引所)

 
 
●上海へ密航、ドイツ汽船を買って戻る
大阪の街を見つめる
五代友厚像
(大阪証券取引所)
ペリー来航で日本中が騒然となった幕末。政府が安政2年(1855 )長崎に開設した日本発の海軍である長崎海軍伝習所に、20歳の五代友厚がいた。165名の伝習生の中には、勝海舟もいた。
ちなみに五代友厚と、勝海舟の弟子でもあった坂本龍馬は同じ年の生まれだ。インターネットはもちろん電話もテレビも飛行機もない時代、太平洋に浮かぶ帆船の上で若者たちが海の向こうに抱いた夢は、現代人である私たちが宇宙に抱く夢よりも大きかったかもしれない。
開国して国を富強しなければ、日本は欧米の植民地になってしまう。友厚は日本を欧米と互角に渡り合えるビジネス国にしようと燃えた。
五代友厚は天保6年(1835)薩摩藩士の子として薩摩藩城ヶ谷に生れた。12歳で藩校造士館に入り文武を修めた。幼名は徳助だったが、知恵者であったことから「才助」と呼ばれた。
14歳の時、父、秀堯が藩主、島津斉興に命ぜられた世界地図の模写を父に代わってやってのけたというエピソードがある。2枚模写した友厚は、1枚を書斎に掲げて日夜眺め、地球儀まで作ってしまう。小さな島国である日本。同じ小さな島国でもイギリスが強いのはなぜだろう・・・。その頃から視野はすでに世界に向けられていた。
藩命により長崎の海軍伝習所に学んだあと、文久2年(1862)に幕府貿易船「千歳丸」で上海に渡っている。手続きに間に合わなかった友厚は、身分を偽り水夫として千歳丸に潜り込んで密航した。そして独断でドイツの汽船を買い付けて帰国。富国に備えて船を欲しがっていた薩摩藩は友厚に対してお咎めなしとし、彼を船奉行にする。
 
 
●薩英戦争でイギリス軍の捕虜に
この年、有名な生麦事件が起こる。薩摩の島津久光が江戸からの帰国途中、生麦村(現横浜市鶴見区)を通過の際、大名行列に馬で乗り入れたイギリス商人4人を殺傷。これがきっかけで翌年、薩英戦争が勃発した。砲戦となり、鹿児島湾で3隻の汽船を操行していた友厚は拿捕(だほ)され、松木洪庵(後の外務卿・寺島宗則)と共に捕虜にされてしまう。
その後、横浜で解放されるが、「自害もせず、おめおめと捕虜となった武士」の噂が飛び交う郷里には戻れず、しばらく放浪の旅を続ける。その間に薩摩藩とイギリス軍の間で和議が成立。友厚も無事帰郷する。実は和議の裏には、捕虜となった友厚の働きがあった。「薩摩藩の陸軍は日本でも最強。陸上戦となったらイギリスに勝ち目はない」と敵艦の提督にアピールしたのだ。これを聞いたイギリス軍は再戦を思い留まったとされる。

薩摩で再び船奉行に戻った友厚は、藩に対し富強のための施策としてヨーロッパへ留学生を派遣することを提案する。

慶応元年(1865)3月20日、友厚は松木洪庵や後に文部大臣となる森有礼とともに留学生14人を引き連れて欧州に向けて出発した。

半年の滞在中、友厚は各国を精力的に見て回った。西欧文明の発達ぶりに衝撃を受ける中で、とくにロンドンで見た銀行や商品取引所、商工会議所、商社合力(株式会社)は、後に起業家となる五代に大きなヒントを与えた。

 
 
 
 
●官僚を捨て、民間人実業家として大阪の再興に身を投じる
大阪商工会議所前にある
「初代会頭五代友厚の銅像」
大阪にやってきたのは、欧州から帰国2年後の明治元年(1868)。
江戸時代「天下の台所」とうたわれた大阪は、明治維新で経済環境が急変した。銀本位制の廃止や米相場の禁止、廃藩置県で全国から大阪に商品が集まるシステムが崩壊し、大阪商人は大打撃を受けた。加えて大名への貸金が踏み倒されるなどして、かつて豪商と呼ばれた35の商家のうち25家が没落した。
外国官権判事兼大阪府権判事として赴任した友厚は、造幣寮(現・造幣局)の開設を皮切りに川口運上所(現・大阪税関)の整備や大阪港の開削などに尽力し、外交関係では有名な「堺事件」や「英公使パークス襲撃事件」を処理した。
治外法権の時代の中で、外国商人たちの不正行為が堂々とまかり通っていた。条約違反や代金、賃金不払い・・・しかし、友厚は容赦なく摘発、処分した。そのため、阪神在住の外国の領事たちから反発を招いた。外国人だけでない、当時神戸の運上所の責任者でもあった伊藤博文ら官僚仲間からも疎まれるようになった。
赴任してわずか1年で横浜転勤の辞令が下りた。すでに友厚の功績を認める大阪商人たちは、転勤を差し止めるよう政府に嘆願書を出すが適わなかった。
そんな大阪商人に心を動かされた友厚は、官僚を辞め、民間人として大阪の再建に尽くす決意をする。明治2年(1869)、友厚 33歳のことだ。
 
 
●「大阪の救世主」から「政商」へ。失脚の真相は・・・
このまま古い体質の問屋都市では大阪は没落してしまう。起業家となった友厚が 一番に手がけたのは英和辞書の刊行だった。そして東区大手町に大阪活版所を開設。
続いて金銀分析所を、明治11年(1978)には大阪株式取引所(現・大阪証券取引所)と大阪商法会議所(現・大阪商工会議所)を設立した。2年後には大阪商業講習所(現・大阪市立大学)を創設し、人材の育成にも取り組んだ。並行して鉱山の開発・経営をする「弘成館」、製藍業の「朝陽館」を創業、紡績、鉄道、海運などの事業も手がけている。

まさに大阪の救世主だった。しかし明治14年(1881)に、ある事件が起こる。

北海道開拓使の官有物払い下げ事件だ。同じ薩摩出身で北海道開拓使長官であった黒田清隆が、友厚の企業に官有物を払い下げたことが、薩摩閥の不正取引だと非難されたのだ。

背景には、後に総理大臣となった長州出身の伊藤博文の政治的な画策があったとされる。日本各地で広がってきた自由民権運動も友厚にとって逆風になった。
以降、五代友厚は「政商」といわれるようになる。この事件がなければその偉業はもっとストレートに語り継がれただろう。
もっとも、彼に対する大阪商人の信頼は薄れなかった。翌年1月に行われた大阪商法会議所会頭の選挙では62票中55票を獲得して会頭に再選されている。
明治18年(1885)年9月25日、五代友厚は50年の生涯を終えた。葬儀には4800人もの弔問者が訪れたそうだ。その中には「五代はんは大阪の恩人やった」と早過ぎる死を悼む商店のおかみさんたちたちも多かったと記される。「大阪の土に」という本人の遺言で、お墓は阿倍野斎場にある。
没後は財産もあったが、それ以上の膨大な借金があったといわれる。お金は残さなかったが「大阪経済の基盤と人材」を残した。
 
大阪商工会議所
 
 
 
堺筋本町にある大阪商工会議所の前にも、「初代会頭五代友厚の銅像」が建っている。北浜の五代さんは、大阪証券取引所の新ビル完成時の平成18年に誕生したが、こちらの五代さんは明治33年に誕生したものだ。(戦時下の昭和18年、金属類回収令により供納され、現在の像は昭和28年に再建されたもの)
歩道から五代さんを撮影していたら、「このおっさん、そんなに偉い人なんか?」と、思ったかどうかは分からないが、銅像を仰いで台座の説明版を読んでいく若いビジネスパースンがいた。
大阪を愛する一人として、私もこのスーパー起業家の生き様を語り継いでいかなければと思う。
 
 
左端が五代友厚像
(大阪商工会議所)
 
 
 
プロフィール
文/写真:フリーライター・池永美佐子
京都生まれ、大阪育ち。
関西大学社会学部卒業後、新聞社、編集プロダクション、広告プロダクションを経てフリー。
雑誌やスポーツ紙等に執筆。趣味は温泉めぐり。現在、恋愛小説 に初挑戦?!
 
 
 
第一話 第二話 第三話          
←2007年〜2009年度連載「関西歴史散歩」はこちらからご覧頂けます。
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