期待に胸を弾ませて開封した手紙には、自分が余命いくばくもないこと、自分たち兄弟を助けて博愛社の事業に献身し、孤児の母になってほしい旨の内容が書かれていた。
愛とか恋とかいう文字は一つもなかったが、読み終えると熱い涙があふれ出た。 熟考の末、歌子は教師の仕事を捨て、孤児の母となる道を選んだ。歌子28歳の夏だった。
歌子は明治40年(1907)3月、中之島公会堂でチャリティー音楽会を開催し、その利益と篤志家からの借金で中之島6丁目に「大阪婦人ホーム」を建設した。ホームでは都会で行く宛のない女性に宿を提供し、身の上相談や職業紹介を行った。
あるとき遊郭から逃げてきた女性をホームでかくまった。屈強の男が女を連れ戻しにやって来ても、歌子はひるむことなく追い返した。