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第5話
孤児や女性たちの幸せを求めて闘い続けた社会活動家・林歌子
 
 
文/写真:池永美佐子
 
つい50年ほど前まで日本には「娼婦」「娼家」などという職業が公然と存在して、買売春が職業として公認されていた。とくに商都大阪は、明治時代には日本でも一番遊郭の多い都市だったといわれる。その理由として、得意先の接待に遊郭が使われていたことがある。
林歌子は、女性の身体が商品のように売り買いされていた時代に、公娼廃止を訴え女性の人権を守ろうと闘った社会活動家である。一方では、小橋勝太郎が創立した孤児院「博愛社」をその弟の実之助とともに引き継ぎ、孤児たちの母としてその養育に心血を注いだ「やさしいおかあさん」でもあった。
 
 
 
●離婚後、生涯独身を誓って教師に
林歌子
(資料提供:博愛社・
創立120周年記念誌
「博愛社が来た道」より)
歌子は越前国(福井県)大野に元治元年に生まれた。
父の林長蔵は土井藩徒士(かち)武士(徒歩で主君のお供や先払いをする下級武士)で、母は歌子が3歳のときに亡くなった。
父は再婚したが、頭のいい歌子に期待をかけ勉強させた。継母が家事を教えようとすると「歌子には別の仕事がある。つまらぬことで暇をつぶさせるな」と叱ったという。
福井女子師範学校に進んだ歌子は卒業後、大野小学校教師として勤務していたが、20歳で同じく小学校教師の阪本円大と恋愛結婚し、長男を儲ける。しかし、どちらも長男長女だったことから家督相続の問題がこじれ、わずか1年余りで離婚する。しかも、泣く泣く手放した愛児は間もなく病死してしまう。
傷心の歌子は生涯独身で生きることを決意し、明治18年(1885)上京した。チャニング・ムーア・ウィリアムズ師が主教を務める神田基督教会に通い、それをきっかけに洗礼を受けて主教が創立した築地立教女学校の教師になる。学校では、国語、数学、理科を教えた。若くて美人で明るい歌子は、生徒の間でも人気者になった。
 
 
●教師の道を捨てて、孤児の母に
明治25年(1892)、教師になって5年目の ある日、林歌子の元に1通の手紙が届く。神田基督教会で知り合った小橋勝之助からだった。歌子と勝之助は互いに惹かれあっていた。
兵庫県播州赤穂出身の勝之助は、東京帝国大学医学部に進学すべく上京していたが、若いときの酒が原因で心臓病を患っていた。しかし、教会でキリスト教の感化を受け、医学の道に進むのをやめ、恵まれない子どもたちの救済運動に身を投じる覚悟をする。帰郷した勝之助は、弟、実之助とともに孤児院「博愛社」を赤穂郡矢野村瓜生に創立した。

期待に胸を弾ませて開封した手紙には、自分が余命いくばくもないこと、自分たち兄弟を助けて博愛社の事業に献身し、孤児の母になってほしい旨の内容が書かれていた。

愛とか恋とかいう文字は一つもなかったが、読み終えると熱い涙があふれ出た。 熟考の末、歌子は教師の仕事を捨て、孤児の母となる道を選んだ。歌子28歳の夏だった。

瓜生の博愛社では、勝之助や実之助たちと一緒に30人ほどの孤児が暮らしていた。博愛社の活動は慈善事業であったが、「預かった孤児を農耕や牧畜を主とした実業教育により、信仰の厚い社会に役立つ人間として育成する」という考え方を持っていた。歌子は家事一切を担い、野良仕事の合間に孤児たちに勉強も教えた。
勝之助は歌子に深く感謝して30歳で天に召されていった。
 
博愛社の創始者、
小橋勝之助と仲良く並ぶ
林歌子 (於・博愛社)
 
 
●アメリカ大陸募金行脚に出発
博愛社で子ども達を見守る
「社母・林歌子」の胸像
明治27年(1894年)、実之助と歌子は行き場のない数人の子どもたちを連れ、勝之助の遺言に従ってキリスト教活動家の阿波松之助を頼って大阪にやってきた。博愛社は西成郡大仁村(現材の中津)の阿波家の離れを借りして再スタートしたが、経済的にたちまち行き詰まる。
やむなく歌子が夜学の教師をしてそのお金で食いつないだが、米も麦もなくなり芋を食べる生活が続いた。しかし、いよいよ追い詰められ二人が祈ると不思議なことに献金者が現れた。
次第に博愛者の噂が世間に広がっていき、運営面も軌道に乗り出した。ウィリアムズ主教らの寄付により、西成郡神津村(現在の十三)に新しい博愛社ができたのは明治32年(1899)。子どもたちの数も100人ぐらいになっていた。
実之助の伴侶に、プール女学校で教師をしていた山本カツエを迎えると、歌子は社母の役割をカツエにバトンタッチして、渡米を決意する。
目的は先進国の福祉に目を開くことと、運営資金調達のための募金活動だった。
初めて訪れた異国の地で歌子は、宣教師との交流の中で身につけた英語を駆使し、博愛社の活動をアピールした。ニューヨークではチャリティー日本音楽会を開催して、大成功を収めた。後に歌子は「募金の名人」と言われるようになる。
明治39年(1906)の暮れ、1年半のアメリカ募金行脚を終えて帰国した歌子は、調達した15,000円を実之助夫妻に手渡し、新たな活動へと乗り出した。
 
 
●「大阪婦人ホーム」設立。矯風会の活動と共に女性運動へ。
渡米と前後して、歌子は、立教女学校教師時代に知り合った矢島楫子が率いる「日本キリスト教婦人矯風会」の活動にのめりこんでいった。女性福祉の事業に力を注ぐ矯風会は、明治19年(1886)に発足、現存する女性団体としては最も長い歴史をもつ。
当時、日本は日露戦争後で好況に沸いていたが、農村では凶作が続いていた。そんな中で、身売りされたり家出したりして都会の遊郭に身を置く若い娘たちも多かった。

歌子は明治40年(1907)3月、中之島公会堂でチャリティー音楽会を開催し、その利益と篤志家からの借金で中之島6丁目に「大阪婦人ホーム」を建設した。ホームでは都会で行く宛のない女性に宿を提供し、身の上相談や職業紹介を行った。

あるとき遊郭から逃げてきた女性をホームでかくまった。屈強の男が女を連れ戻しにやって来ても、歌子はひるむことなく追い返した。

 
主イエス降誕の壁画のある
「小橋兄弟記念館」
(博愛社)
 
 
●空から、遊郭反対のビラを撒く
明治42年(1909)夏、大阪北区で大火があり曽根崎遊廓が全焼するという事件が起こった。これを機に歌子たちの遊郭再建反対運動が始まった。市民大会を開いたり、再建取り消し陳述書を内務大臣に提供したりするうちに、運動は各新聞社の協力を得て市民の間に広まり、時の大阪府知事・高崎親章の賛同を得て翌年、曽根崎遊廓は廃止された。
 続いて明治45年(1912)冬、大阪南区でも大火事が起き、難波新地の大半が焼失した。歌子らはここでも再建反対運動を起こし、市民や知事を巻き込んで運動は大成功を収めた。
大阪で林歌子は有名人になっていた。遊郭事業者たちは「火事を出すな。遊郭が焼けるとこわいおばはんにつぶされる」と、陰口をたたいた。
そんな中で、大正5年(1916)、大阪の飛田で新たに遊廓を作る計画が浮上する。この時には、歌子たちが呼びかけて100余名の母親たちが大阪府庁までデモ行進を行っている。歌子は、総理大臣・大隈重信や天皇へも飛田遊郭指定反対を直訴した。
ちょうど、宙返り飛行で世界を巡回していたアメリカの飛行家、アート・スミスが大阪に来ていた。歌子はこれ幸いと「反対のビラを空から撒いてくれませんか」と頼み、スミスも快く承諾。空から舞い落ちる遊郭反対のビラに大阪市民はド肝を抜かれた。
しかし、歌子たちのそんな努力もむなしく、1年以上に及んだ闘いは失敗に終わった。時の大阪府知事・大久保利武が建設許可を指令し、これを置き土産に辞職してしまったのだ。遊郭設置を推進した府議会や市議会の中に、かなりの数の遊郭関係者がいた。議会に女性議員がいないどころか、女性には選挙権すらなかった。
博愛社に建つ
「聖贖主教会」
この事件を機に、歌子たちの目標は、婦人参政権運動へと傾いていく。大正10年(1921)には、矯風会から独立して「日本婦人参政権協会」が発足。歌子はその会頭の久布白(くぶしろ)落実と欧米を回って各国の参政権の現状につい調査したり、昭和5年(1930)には、同会代表としてロンドン海軍軍縮会議に乗り込んだりもしている。
しかし、歌子らの活動とは反対に、世界は戦争の時代へと突入していった。
歌子たちが訴え続けた婦人参政権や公娼廃止が実現するのは、さらに15年も後のことだ。それは、敗戦でGHQ(連合国総司令部)の「五大改革」の指令によってもたらされた。
歌子は、その知らせを、博愛社が歌子の喜寿を祝って建ててくれた三島郡阿武野村(現・茨木市)の家の床の中で聞いた。歌子は床についたまま「バンザイ!」と叫んだという。
翌、昭和21年(1946)3月23日、歌子はこの家で波乱に飛んだ81歳の生涯を終えた。
 
 
 
明治、大正、昭和、平成と、それぞれの時代の中で社会的に困難な状態に置かれている人々の福祉課題に取り組んできた社会福祉法人博愛社は、今年1月に創設120年を迎えた。
十三にある博愛社の敷地内には、小橋勝之助・実之助兄弟や小橋カツエと並んで、林歌子の胸像が建てられ、静かに子どもたちを見守っている。
いま、日本では性に関する産業が花盛りだ。公娼はなくなったが、「援助交際」と言う耳障りのいい言葉で買売春が行われ、インターネットサイトから怪しげな情報が垂れ流される。また、女性に限らず選挙を放棄する人もいっぱい・・・。歌子さんが生きていたら何というだろうか。
 
 
 
プロフィール
文/写真:フリーライター・池永美佐子
京都生まれ、大阪育ち。
関西大学社会学部卒業後、新聞社、編集プロダクション、広告プロダクションを経てフリー。
雑誌やスポーツ紙等に執筆。趣味は温泉めぐり。現在、恋愛小説 に初挑戦?!
 
 
 
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←2007年〜2009年度連載「関西歴史散歩」はこちらからご覧頂けます。
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