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第8話
天体観測に魅せられ、恩師や仲間とともに寛政暦をつくった大坂商人、間長涯
 
 
文/写真:池永美佐子
 
星がきれいに見える季節。大阪で天文観察といえば、かつて地下鉄四ツ橋駅近くに世界でも20数台しかなかったプラネタリウム設備をもつ「電気科学館」があった。今では肥後橋駅近くに移転して「大阪市立科学館」となっているが、200年ほど前、この四ツ橋の近くに架かる富田屋橋(とんだやばし)で間長涯(はざまちょうがい)という町人天文学者が天文観測をしたとされる。
その後、昭和42年(1967)年より四ツ橋や冨田屋橋の下を流れていた西長堀川は埋められて道路となり、現在、地下鉄西大橋駅駐輪場横の緑地帯になっている長堀通のその場所には「間兆涯天文観測の地」の碑が立っている。
 

地下鉄西大橋駅の
上にある「間長涯
天文観測の地」の碑

 
 
●15の蔵を持ち「十五楼主人」と呼ばれた長涯
旧西長堀川に
架かっていた富田屋橋
冨田屋橋北詰で「十一屋」という質屋を営む間長涯が、本町にある天文塾「先事館」の門をたたいたのは、天明7年(1787)6月だった。目的は、この天文塾を開く麻田剛立に弟子入りを願うためである。当時、江戸時代後半の大坂には、「懐徳堂」を始めとして、町人たちでつくる私塾が次々と誕生したが、「先事館」もその一つだった。
間長涯の本名は「羽間重富(しげとみ)」。通称は「十一屋五郎兵衛」、長涯は号である。長涯は、宝暦6年(1756)「十一屋」を営む羽間重光の六男に生まれた。後継ぎの息子が多かったため、両親は頭のいい長涯には学問の道に進ませようと期待をかけた。
ところが5人いた兄たちが次々と若死にしたため、長涯が7代目を継ぐことになった。若いうちから思慮深く、懐が大きくて世故に通じていた長涯は、もめ事の仲裁もしばしば引き受けるなどして、30歳にもならないうちに大坂質屋年寄に押されるほど信望が厚かった。もちろん本業の商売のほうも繁盛していて、長涯の時代に蔵が15に増えたので「十一屋」ならぬ「十五楼主人」とも呼ばれた。
一方、勉強好きな長涯は商売だけでは飽き足らず、仕事の傍ら師に付いて儒教や文学や算術も学んでいた。天文や暦学についても造詣が深く、12歳にして渾天儀(こんてんぎ)を作ったり独学で西洋の天文書「崇禎暦書」を読んだりしていた。
 
 
●日本で最初に月面観測図を描いた麻田剛立
この時、長涯31歳。自分よりも20歳も若い人が独学で難しい天文の勉強をしていることに感動した剛立は、長涯の人柄のよさも手伝って弟子入りを歓迎した。
麻田剛立は、もと豊後杵築藩の儒学者、綾部安正の四男として享保19年(1734)に生まれた。本名は妥彰(やすあき)。幼いころから神童と呼ばれるほど勉学家で、医学や数学を学ぶ傍ら天文暦学を独学で修めた。杵築藩の侍医になったが、藩主の腹痛を一人で治療したことが原因で先輩たちの嫉視を買い、いたたまれなくなって脱藩、38歳の時に大坂に来たといわれる。それからは名前も麻田剛立と改め、本町に居を構えて医術で生計を立てる傍ら、長堀にかかる中橋で西洋式の天体観測を始めた。

ちなみに安永7年(1778)、剛立が44歳のときに観測してスケッチした月面観測図には、大小11個のクレーターと月の海が描かれ、わが国最古の月面観測図とされる。

剛立の下には弟子を志願する若者が多く、最初は勉強会のような形で天文や暦の知識を伝授していた。「先事館」という名前が付いたのは、寛政元年(1789)である。

 
「先事館」があったと
思われる本町通りの界隈
 
 
●研究や観測機器をつくる職人にも惜しまず投資
長涯が入塾して間もなく、大阪城定番同心(警備役の家臣)の高橋至時(よしとき)が先事館に入って来た。至時は24歳だったが、門下きっての切れ者と呼ばれ、二人はよきライバルになった。
商人としても成功していた長涯は、高価な研究書や観測機器の購入にも意欲的で、観測機器をつくる職人の育成にも資金を惜しまず投入した。とくに長涯が入手した『暦象考成後編』は、当時最先端といわれたケプラーの楕円軌道について紹介され、この貴重な天文学書のおかげで、3人の天文測定は飛躍的に進んだとされる。
また、長涯は若くて向学心に燃える若者を支援したパトロンとしても知られる。蘭方医の小石元俊と共同で堀江の傘屋の紋書き職人だった橋本宗吉を見出し、学資を与えて江戸に留学させた。その宗吉は、のちのち大坂蘭学の祖として多くの後継者を育てている。
 
 
 
 
●高橋至時と協力して寛政暦をつくる
当時、農業国の日本で「天文暦学」は、天文の中でもとくに重要な研究ジャンルだった。
しかし、日本の暦は、平安時代以降、月の動きを基準とする太陰歴の流れを組む中国伝来の「宣明歴(せんみょうれき)」が使われ、非常に遅れたものだった。徳川吉宗の時代になると西洋の書物が解禁され、ようやく新しい「宝暦暦」が作られたが、まだまだ役に立つ代物ではなかった。そこで幕府の老中、松平定信は、寛政の改革の一環として改暦を指示したが、暦を作る天文方と呼ばれる幕府の役人の中に、西洋天文学の知識を持った人物が一人もいなかった。

そんな中で注目されたのが、先事館の剛立だった。数十年に渡って地道な天文観測を続けてきた剛立は、8年後に起こる日食や月食の日時や規模を正確に言い当てるほどの予報技術を持ち合わせており、その噂は松平の耳にも届いていた。

ところが、寛政5年(1793)、改暦作成の依頼を定信の使者から受けた62歳の剛立は、高齢を理由に辞退。代わりに若い長涯と至時を推薦したが、アマチュア天文家でしかない二人に与えられた役職は、単なる「測量御用手伝い」という身分の低いものだった。

しかし剛立には、目論見があった。面目を潰された幕府の天文方は、恐らく大坂からやってきた二人に嫌がらせをするだろう。けど、切れ者だが気性の激しい至時と調整能力に長けた長涯をペアにすれば、どんな難局も乗り切ってうまくやってくれるに違いない、と。

寛政7年(1795)、江戸の天文台に入った二人は、先事館で取り組んだ研究成果をもとに西洋の太陽暦も取り入れた新しい暦法を作り上げ、2年間の実測の経て見事に完成させた。この暦は「寛政暦」と呼ばれ、天保14年(1843)まで45年間用いられた。

ちなみに、日本で今日のグレゴリウス暦が使われるようになったのは、明治6年(1873)からだ。

 
肥後橋にある
「大阪市立科学館」
 
 
●伊能忠敬に受け継がれた魂
大坂に戻った長涯は、凱旋将軍のように熱狂的に迎えられた。
寛政10年(1798)、寛政暦が施行されると、至時には金3枚、町人身分の長涯には銀20枚、二人を育てた剛立には銀5枚が与えられたという。その翌年、この朗報を待ちうけたように剛立は他界した。
その功により、長涯は天文方に抜擢されたが「自分は大坂商人ですから」ときっぱり断わり、代わりに英国製の最新型の観測器具を借り受けた。そして、それを用いて自宅南側に架かる富田屋橋の上で、天文観測を続けた。このときは周囲を通行止めにするほど権威があったという。幕府の天文方と同格の待遇として苗字を名乗ることを許され、「間」と改めた。

一方、天文方となって江戸に残った至時の下には、日本地図をつくりたいと志す伊能忠敬が弟子入りしていた。ところが至時が志半ばで急死。そのため長涯は、再び江戸に上がり、至時の後を継いだ長男、景保の後見人として至時が手掛けていた「ラランデ暦書」の翻訳の続きを手伝ったり、忠敬に天文学や測量技術を指導したりした。忠敬はのちに日本初の正確な地図「大日本沿海輿地全図」を完成させた。

その後、帰坂した長涯は、文化13年(1816)3月24日、61歳でその生涯を終えた。

長涯亡き後、間家では、長涯の子、重新も家業と観測を引き継ぎ、その後、重遠、重明と4代にわたって御用観測が行われた。

大阪市中央区にある大阪市立博物館には、長涯以下、4代続いた間家が残した江戸時代の天文、気象の観測記録や観測機器が所蔵されている。

 
 
 
 
 
夜空にきらめく満天の星。そのまばたきは数億万年前に発したものかもしれない。そんな壮大な宇宙のスケールに触れると、人が生まれて死ぬまでの時間は、本当に短い一瞬ということになるのだろうか…。
でも、それと同時に、人はリレーしながら生きている、いま私たちが享受している最先端のサイエンスも、こうした先人たちが積み重ねた地道な実験と実測の延長にあるということを、あらためて気付かせてくれる。
 
 
 
プロフィール
文/写真:フリーライター・池永美佐子
京都生まれ、大阪育ち。
関西大学社会学部卒業後、新聞社、編集プロダクション、広告プロダクションを経てフリー。
雑誌やスポーツ紙等に執筆。趣味は温泉めぐり。現在、恋愛小説 に初挑戦?!
 
 
 
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