地下鉄西大橋駅の 上にある「間長涯 天文観測の地」の碑
ちなみに安永7年(1778)、剛立が44歳のときに観測してスケッチした月面観測図には、大小11個のクレーターと月の海が描かれ、わが国最古の月面観測図とされる。
剛立の下には弟子を志願する若者が多く、最初は勉強会のような形で天文や暦の知識を伝授していた。「先事館」という名前が付いたのは、寛政元年(1789)である。
そんな中で注目されたのが、先事館の剛立だった。数十年に渡って地道な天文観測を続けてきた剛立は、8年後に起こる日食や月食の日時や規模を正確に言い当てるほどの予報技術を持ち合わせており、その噂は松平の耳にも届いていた。
ところが、寛政5年(1793)、改暦作成の依頼を定信の使者から受けた62歳の剛立は、高齢を理由に辞退。代わりに若い長涯と至時を推薦したが、アマチュア天文家でしかない二人に与えられた役職は、単なる「測量御用手伝い」という身分の低いものだった。
しかし剛立には、目論見があった。面目を潰された幕府の天文方は、恐らく大坂からやってきた二人に嫌がらせをするだろう。けど、切れ者だが気性の激しい至時と調整能力に長けた長涯をペアにすれば、どんな難局も乗り切ってうまくやってくれるに違いない、と。
寛政7年(1795)、江戸の天文台に入った二人は、先事館で取り組んだ研究成果をもとに西洋の太陽暦も取り入れた新しい暦法を作り上げ、2年間の実測の経て見事に完成させた。この暦は「寛政暦」と呼ばれ、天保14年(1843)まで45年間用いられた。
ちなみに、日本で今日のグレゴリウス暦が使われるようになったのは、明治6年(1873)からだ。
一方、天文方となって江戸に残った至時の下には、日本地図をつくりたいと志す伊能忠敬が弟子入りしていた。ところが至時が志半ばで急死。そのため長涯は、再び江戸に上がり、至時の後を継いだ長男、景保の後見人として至時が手掛けていた「ラランデ暦書」の翻訳の続きを手伝ったり、忠敬に天文学や測量技術を指導したりした。忠敬はのちに日本初の正確な地図「大日本沿海輿地全図」を完成させた。
その後、帰坂した長涯は、文化13年(1816)3月24日、61歳でその生涯を終えた。
長涯亡き後、間家では、長涯の子、重新も家業と観測を引き継ぎ、その後、重遠、重明と4代にわたって御用観測が行われた。
大阪市中央区にある大阪市立博物館には、長涯以下、4代続いた間家が残した江戸時代の天文、気象の観測記録や観測機器が所蔵されている。