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第9話
琵琶湖疏水開拓で京都に「日本初」をもたらした田辺朔郎
 
 
文/写真:池永美佐子
 
明治2年(1869)東京に新政府が開かれると、都の座を奪われた京都の人たちの心の中はぽっかりと穴があき、京都の産業経済は衰退をたどった。53万人近くあった人口も半分以下になってしまった。「何とか市民が一丸となれる産業復興策を打ち出さなければ」。
そう考えた第三代京都府知事・北垣国道(くにみち)が計画したのが、琵琶湖疏水の建設だった。京都の町に人工の水路をつくり、琵琶湖から水を引くことで灌漑や水運、水車の動力で産業振興させようというわけだ。この壮大なプランの設計者として白羽の矢が立てられたのが、工部大学校(現・東京大学工学部)を卒業したばかりの田辺朔郎だった。
 
 
 
●授業はすべて英語、英国人教授から土木技術を学ぶ
田辺朔郎の銅像
(蹴上疏水公園 )
明治14年(1881)10月、工部大学校土木科の学生だった田辺朔郎は、東海道を京都に向かってひたすら歩いていた。その姿は金ボタンの学生服に脚絆とわらじ履き。腰に靴をぶらさげ、肩に風呂敷包みを紐で結えた振り分け荷物という、なんとも野暮ったいものだ。当時、鉄道はまだ東京〜横浜間しか開通しておらず、その先は人力車に乗るか歩くしかない。
虎ノ門にあった工部大学校は、明治4年日本国内に技術者を養成するために創設された工業専門学校で、就学期間は6年。英国グラスゴー大学から9人の教授陣が招かれ、授業はすべて英語で行われた。学生たちは実地科になると工部省工作局の辞令を受けて各地へと飛び、実地研究を行なう。そして、この研究成果が卒論になる。
朔郎の元に届いた辞令は「東海道筋ならびに京都大阪」というものだった。京都に向かったのもそのためだ。
朔郎は文久元(1861)年、幕臣の洋式砲術家、田辺孫次郎の長男として、江戸下谷に生まれた。生後間もなく父親が他界したため、一家は孫次郎の弟で江戸幕府の外交官でもある田辺太一から経済的な支援を受けたが、その太一が破産。大学に在籍していた朔郎は、高額の学費を借金で賄ながら学業を続ける苦学生でもあった。東海道をわらじ履きで歩いて往来したのには、そんな懐事情があったのだ。
 
 
●北垣国道知事との出会い
10日がかりで京都入りした朔郎は、京都府庁勧業課を訪れ、北垣国道・第三代京都府知事の疏水構想を知る。そして自身の研究と卒論のテーマを「琵琶湖疏水工事の路線調査」とした。
翌年の春、工部大学校で卒論に取り組んでいた朔郎は、北垣知事の訪問を受けた。北垣は兵庫県に生まれ、高知県令(=長官。のちに知事と改称)や徳島県令を経験した地方行政豊かな地方官だった。琵琶湖疏水建設の構想は、単に灌漑や水運のために行うものではなく、京都が再起復興する手段として打ち出すものだ。

北垣は、国家事業ではなく、京都独自の事業として実施することにこだわった。そのためにも設計は、政府雇いの外国人技師ではなく日本人技師に依頼したいと考えていた。

朔郎から具体的な疏水計画についての詳しい説明を聞いた北垣は、設計プランもさることながら彼の学問に対する真摯な姿勢と疏水設計にかける情熱に感動する。校長・大鳥圭介も彼を推薦した。

こうして北垣は、琵琶湖疏水工事という大事業を、まだ二十歳そこそこの学生の朔郎に任せることを決断した。

ちなみに朔郎は京都での実地調査中、転んだはずみに握っていたハンマーを右手の上に落とし、中指の第一関節と第二関節の間を切除する事故に見舞われる。しかし、そんなことはものともせず、左手で卒論を書きあげたという。

明治16年(1883)、工部大学校土木科をトップで卒業した朔郎は、工学士を授与され、疏水工事担当として京都府御用係に採用された。

 
北垣国道知事の銅像
(夷川発電所)
 
 
●総工費125万円! 市民が一丸となって取り組む
もっとも実際に琵琶湖疏水建設工事に着手するまでには、さまざまな問題が立ちはだかった。
まずは金額的な問題だ。北垣知事は当初、この工事の資金として、遷都後新政府から交付された10万円に元利合わせて30万円となった産業基金に、国庫金を補って60万円と見積もっていたが、最終的に疏水工事の概算費用は倍以上の125万円に跳ね上った。 内務省土木費の総額が100万円の時代に、この金額は異例の高さだ。建設反対の声も強まる中、水源地である滋賀県や隣接する大阪府からも反対を食らった。「琵琶湖の水が干上がる」「淀川の水量が増すことで水害を被る」というのが言い分だった。
しかし、北垣はあきらめずに反対勢力に対して粘り強く説得や交渉を続け、ついに着工に漕ぎつけた。資金不足は市債や寄付金のほか、特別に全市民に課税された目的税も当てるなどして市民が一体となって取り組んだ。
 
 
●斬新なアイデアとチャレンジ精神で立ちはだかる難題をクリア
朔郎が計画した疏水は、全長が 1万1103m。その中で最大の難関は、大津(滋賀県)と山科(京都府)を隔てる長等山にトンネルを掘ることだった。トンネルの長さは2436m。これは当時として、日本一の長さだった。当時の技術でトンネル工事は山の両側から横に掘り進むが、朔郎は何カ所か山の上から穴を掘って地中にもぐり、そこから左右に掘り進む「シャフト工法」という、当時としては最新の工法を使うことにした。こうすれば長いトンネルも分割して掘り進むことができ、落盤のリスクが少なく工期も短縮できる。
また、固い岩盤の長等山は掘るのが難しく、地下からあふれ出る湧水が大きな問題だった。朔郎は途中から手掘りを止め、イギリスからダイナマイトを取りよせて岩を砕いた。
一方、水運は疏水建設の重要な目的の一つだったが、蹴上(けあげ)の辺りは坂が険しく、船が通れない。朔郎はそのエリアにレールを敷き、船を台車に載せてケーブルで引いて上下する「インクライン(傾斜鉄道)」を採用した。完成後、船が山を登る光景を目の当たりにした京都市民はド肝を抜かれた。 
疏水が完成に近づいた明治21年(1888)、アメリカで水力発電所が運転を始めたという情報が、朔郎たちのところに届いた。当初の計画では疏水の水で水車を回し、それを動力として利用することになっていたが、電力が使えるなら取り入れたいと考えた朔郎は京都商工会議所会頭・高木文平を伴い、さっそく視察することになった。
大津側のトンネル出口付近で落盤事故が発生したのは、二人がまさに明日、米国に出発するという前夜だった。朔郎は現場に急行し、埋もれた人たちの救出に当たった。北垣知事も滋賀県の中井弘知事も駆け付けた。幸い、閉じ込められた坑夫65人全員は、奇跡的に助かった。救出劇は翌日、大きく新聞に取り上げられ、京都市内は感動に包まれた。
落盤事故から2日遅れでアメリカに出発した二人は、2カ月かけて先進国の運河やインクラインを視察。コロラド州アスペンの山奥の銀山で開発されたばかりの水力発電を目の当たりにした朔郎は、その技術を習得し、帰国後、日本で最初の営業用水力発電所を蹴上に設けた。 
南禅寺船溜(東山区岡崎)
インクラインと
廃線跡(蹴上)
 
 
●日本初の水力発電所と路面電車を実現
疏水完成100周年を記念して
平成元年に開館した
琵琶湖疏水記念館
明治23年(1890)4月9日、4年 8ヵ月をかけて琵琶湖疏水は完成した。動員した工事関係者はのべ400万人という大プロジェクトとなった。
さらに翌年には、インクラインが走る蹴上で日本初の水力発電所が稼働。明治28年(1895)には、その電力で京都・伏見間で日本初となる路面電車(京都電気鉄道)の営業運転が始まり、西陣織をはじめとする京都の産業が勢いをつけていった。その後、琵琶湖第二疏水が伏見までつくられ、水運や生活用水として利用された。
疏水完成の年に28歳になった朔郎は、北垣の長女、静子と結婚。同年、工部大学の教授となり、翌年には工学博士の学位を受けている。その後、第 4代北海道庁長官として赴任した北垣の導きで、北海道官設鉄道の計画・建設に当たり、明治33年(1900)、創立された京都帝国大学(現・京都大学)の理工科教授に。後半生は大学で若者を導く傍ら、全国各地での利水事業、鉄道建設、運河建設などを指導し、昭和19年(1944) 9月 5日、82年の生涯を終えた。
 
インクラインを見降ろす大日山に、田辺朔郎の墓所がある。朔郎の業績に対する感謝の念から京都市によって建立されたもので、墓碑には、その魂が永くこの地にとどまることを願って「希英魂永留本市」と刻まれている。
 
 
 
琵琶湖疏水の完成から1世紀。水運や水力発電の機能はなくなったが、現在も京都市の飲料水および生活用水の99%はこの疏水によって賄われ、疏水のある風景は、京都市民の心のよりどころとなっている。
東山の麓、インクラインを見降ろす疏水公園に、図面を手にした若き日の田辺朔郎の銅像が建っている。ロングヘアでくっきりした二重瞼の目の甘いマスクは、ジャニーズ系アイドルのようだが、その雄姿は建国の夢を抱いて未来を見つめる坂本龍馬とも重なる。
「逆境こそチャンス。未来の扉を開くのは若者だぞ」。
ザァザァと流れる疏水の音に紛れて、そんな声が聞こえてきた気がした。
 
 
 
プロフィール
文/写真:フリーライター・池永美佐子
京都生まれ、大阪育ち。
関西大学社会学部卒業後、新聞社、編集プロダクション、広告プロダクションを経てフリー。
雑誌やスポーツ紙等に執筆。趣味は温泉めぐり。現在、恋愛小説 に初挑戦?!
 
 
 
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←2007年〜2009年度連載「関西歴史散歩」はこちらからご覧頂けます。
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