北垣は、国家事業ではなく、京都独自の事業として実施することにこだわった。そのためにも設計は、政府雇いの外国人技師ではなく日本人技師に依頼したいと考えていた。
朔郎から具体的な疏水計画についての詳しい説明を聞いた北垣は、設計プランもさることながら彼の学問に対する真摯な姿勢と疏水設計にかける情熱に感動する。校長・大鳥圭介も彼を推薦した。
こうして北垣は、琵琶湖疏水工事という大事業を、まだ二十歳そこそこの学生の朔郎に任せることを決断した。
ちなみに朔郎は京都での実地調査中、転んだはずみに握っていたハンマーを右手の上に落とし、中指の第一関節と第二関節の間を切除する事故に見舞われる。しかし、そんなことはものともせず、左手で卒論を書きあげたという。
明治16年(1883)、工部大学校土木科をトップで卒業した朔郎は、工学士を授与され、疏水工事担当として京都府御用係に採用された。