その後、忠興は勝龍寺城から八幡山城を経て宮津に平城を築くが、幸せな生活を暗転させる事件が起こった。
天正10年(1582)6月、玉の父、明智光秀が天下統一をめざす織田信長を倒すという、歴史上の大事件「本能寺の変」だ。
光秀はその後すぐ、山崎の合戦で秀吉軍らによって征伐され、逆臣の娘である玉は忠興によって丹後の味土野(みどの)(現・京丹後市弥栄町)に幽閉された。
政略結婚が普通だった戦国の世。謀反人の娘なら離縁されるか殺されてもおかしくない。離縁されなかったのはそれだけ忠興の愛情が深かったのだと言われる。
こんなエピソードがある。
さらに「顔色ひとつ変えないとは、お前はまるで蛇のような女だ」と言った忠興に対し、玉は「鬼の妻には蛇がお似合いでしょう」と返したという。
この話は前にも紹介した細川家の家記『綿考輯録』に記されている。
16年間屋敷に閉じ込められた玉が、1度だけ家を抜け出したことがある。
忠興が「島津攻め」で九州に出陣していた天正15年(1587年)春、3月29日。キリスト教では復活祭の日だ。
玉は侍女の清原や小侍従らとひそかに淀川の船着き場にあったイエズス会の教会を訪れた。接見した修道士は、キリスト教に関する玉の知識があまりに高いことに驚いたといわれる。玉は身分を隠し、この場で洗礼を授けてほしいと懇願するが、叶わなかった。
やむなく玉は口実を設けて侍女らを教会に通わせ、侍女らに次々と洗礼を受けさせた。そして自分は「イミタツィオ・クリスティ(キリストに倣いて)」という教本で信仰を深めた。これを知った忠興は激怒する。
天正15年(1587年)6月、秀吉はバテレン追放令を出した。玉はイエズス会士グレゴリオ・デ・セスペデス神父の計らいで、侍女の清原マリアの手によって越中屋敷内で洗礼を受けた。「ガラシャ」はラテン語で「神の恵み」という意味だ。
忠興が玉の洗礼を知るのは、それから8〜12年後。バテレン追放令から時間が経ってキリシタンに対する抵抗感も和らいだせいか忠興も受け入れている。
手にする百合は聖母マリアを象徴する花といわれる。花言葉は「純潔・清らかさ」。二人が暮らした、玉造の越中屋敷跡に建つカトリック玉造教会「大阪カテドラル聖マリア大聖堂」の前にも、百合を手にするガラシャの石像があり、カテドラルの中に掲げられた堂本印象の描く「ガラシャ夫人」も百合の花を持っている。ちなみに小川立夫は堂本印象に師事した画家だ。
長岡市では、この年から毎年11月の第2日曜日に「長岡京ガラシャ祭」を開催。玉の輿入れの様子を再現する行列巡行などが行われており、 今年は11月10日に開催される。