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第26話
信仰という武器を手に自らの意思を貫き通した
戦国武将の妻、細川ガラシャ
 
 
文/写真:池永美佐子
 
類まれなる美貌の持ち主といわれた細川ガラシャ。戦国武将、細川忠興の妻でありながら、織田信長の逆臣、明智光秀の娘として悲運の最期を遂げたことで知られる。
「ガラシャ」という名前の響きからか、私たちは、はかなげな、か弱いイメージを抱いてしまうが、実際はかなり違うようだ。
かつて、忠興と新婚時代を過ごした勝龍寺(しょうりゅうじ)城の跡地にある長岡市勝竜寺城公園に、仲睦まじく夫婦が寄り添う銅像が建っている。
今月11月10日には、この公園の前で「長岡京ガラシャ祭」が開催される。
勝竜寺城公園の
細川忠興と玉(ガラシャ)像
 
 
●16歳で細川忠興と結婚 美男美女のカップルに
細川ガラシャは、永禄6年(1563年)、越前一乗谷(福井県)にて明智光秀の三女として生まれた。本名は、玉(玉子)。「ガラシャ」は、後にキリスト教の洗礼を受けて授けられたクリスチャンネームだ。
天正6年(1578)、織田信長のすすめで、山城国西岡(現・長岡京市)一帯を支配していた勝龍寺城主、細川藤孝の嫡男、忠興に嫁ぐ。
ともに16歳の若夫婦。しかも当代切っての美男美女。仲人をした信長をして「まるで夫婦雛のよう」と言わしめた話が、細川家の家記『綿考輯録(めんこうしゅうろく)』に記されている。 二人は仲睦まじくすぐに一男一女をもうける。

その後、忠興は勝龍寺城から八幡山城を経て宮津に平城を築くが、幸せな生活を暗転させる事件が起こった。

天正10年(1582)6月、玉の父、明智光秀が天下統一をめざす織田信長を倒すという、歴史上の大事件「本能寺の変」だ。

光秀はその後すぐ、山崎の合戦で秀吉軍らによって征伐され、逆臣の娘である玉は忠興によって丹後の味土野(みどの)(現・京丹後市弥栄町)に幽閉された。

政略結婚が普通だった戦国の世。謀反人の娘なら離縁されるか殺されてもおかしくない。離縁されなかったのはそれだけ忠興の愛情が深かったのだと言われる。

整備された勝竜寺城公園
 
 
●幽閉されてキリスト教に心酔
ガラシャはラテン語で
「神の恵み」
幼子を城に残し人も通わぬ隠里での暮らしは、孤独極まりないものだったと推測できる。お腹には次男、興秋が宿っていた。
仏教に帰依し信心深かった玉が、唯一心の拠り所にしたのは侍女の清原いと(清原マリア)らから聞かされるキリシタンの話だった。いとは玉が嫁ぐ前から仕えていた。のちにガラシャより一足早く洗礼を受けている。
2年間の幽閉生活の後、天正12年(1584年)3月、羽柴秀吉の取り成しで、玉は大坂玉造にあった細川家の越中屋敷に戻った。
忠興には側室もいて夫婦の間には微妙な隙間風が吹いていたようだが、その後、二人の間に三男の忠利が生まれている。
そんな環境にあって玉子はますますキリスト教に心酔していく。
当時キリスト教は大名クラスにも広がり、大坂屋敷にいる忠興も、キリシタン大名である親友の高山右近からキリスト教の教義を聴かされていた。玉と右近の接点は残っていないが、夫を介して右近の話も伝え聞いていたようだ。
忠興にすれば大坂城の目と鼻の先に逆臣の娘である玉を置くことは、爆弾を抱えるようなもの。トラブル回避のため監視をつけて玉を屋敷に閉じ込めた。
 
 
●屋敷を抜け出して教会へ
ひ弱なイメージがある玉だが、実際は才気にあふれ、高潔な心を持った女性だった。

こんなエピソードがある。

細川家の奥の台所に忍び込んだ小者を忠興が見つけて手討ちにした。その際に刀についた血を玉の着物で拭いたところ、玉は少しも動揺することなく血のついた着物を着続けたという。 これを見た忠興が玉に謝り、ようやく血染めの着物を着替えた。

さらに「顔色ひとつ変えないとは、お前はまるで蛇のような女だ」と言った忠興に対し、玉は「鬼の妻には蛇がお似合いでしょう」と返したという。

この話は前にも紹介した細川家の家記『綿考輯録』に記されている。

16年間屋敷に閉じ込められた玉が、1度だけ家を抜け出したことがある。

忠興が「島津攻め」で九州に出陣していた天正15年(1587年)春、3月29日。キリスト教では復活祭の日だ。

玉は侍女の清原や小侍従らとひそかに淀川の船着き場にあったイエズス会の教会を訪れた。接見した修道士は、キリスト教に関する玉の知識があまりに高いことに驚いたといわれる。玉は身分を隠し、この場で洗礼を授けてほしいと懇願するが、叶わなかった。

やむなく玉は口実を設けて侍女らを教会に通わせ、侍女らに次々と洗礼を受けさせた。そして自分は「イミタツィオ・クリスティ(キリストに倣いて)」という教本で信仰を深めた。これを知った忠興は激怒する。

天正15年(1587年)6月、秀吉はバテレン追放令を出した。玉はイエズス会士グレゴリオ・デ・セスペデス神父の計らいで、侍女の清原マリアの手によって越中屋敷内で洗礼を受けた。「ガラシャ」はラテン語で「神の恵み」という意味だ。

忠興が玉の洗礼を知るのは、それから8〜12年後。バテレン追放令から時間が経ってキリシタンに対する抵抗感も和らいだせいか忠興も受け入れている。

勝竜寺城公園の
南入口にある碑
 
 
●忠興によりカトリック葬で見送られる
城跡より東を望む
慶長3年(1598年)秀吉が亡くなると世の中の流れは、豊臣から徳川へ大きく変わって行き、天下分目の合戦「関ヶ原の戦い」へ。徳川側に付いた忠興は、慶長5年(1600年)6月27日会津征伐のため出陣。
豊臣側の石田三成は畿内が手薄になったのを見計らい、越中屋敷にいた玉を人質に取ろうとするが、ガラシャはそれを敢然と拒否した。
武将の妻ならば自刃するしかない。しかし、キリスト教では自殺は大罪だ。葛藤する玉子はキリシタンである自分の最期について神父に手紙で相談した。
同7月17日、三成が実力行使に出た。屋敷を囲まれ覚悟をきめた玉は、屋敷内の礼拝堂で祈り、共に死にたいと願い出る侍女たちを止まらせた上で、家老の小笠原秀清に槍で胸を貫かせ屋敷に火を放った。享年37歳だった。
辞世の句がある。
散りぬべき 時知りてこそ 世の中の 花も花なれ人も人なれ
イエズス会のオルガンティノ神父は焼け落ちた屋敷から玉の骨を拾って堺のキリシタン墓地に埋葬した。
忠興は翌年その神父に依頼してカトリック葬を行い、自身だけでなく千人を越す異教徒の家臣とともに列席したという。
その後、遺骨は細川家の菩提寺の一つである大坂の崇禅寺へ移し、改葬されたが、忠興はガラシャのために大坂玉造の屋敷内に聖堂を建てている。
当時は、まだバテレン禁止令が解かれてはおらず、キリスト教と関わることは自ら危険を犯すことになったはず。にもかかわらず忠興がカトリック葬で玉を見送ったのは玉の生き方を認め、心の底から愛していたのだろう。
 
 
●長岡市のシンボルキャラに
長岡市では平成4年(1995年)に、忠興と玉が新婚時代を過ごした勝龍寺城跡を整備し、市民が憩える「勝竜寺城公園」として甦った。
寄り添う玉と忠興の銅像の原型は、高岡市出身の彫刻家、田畑功作。公園内に建設された管理棟(資料展示室)に飾られた小川立夫の絵画「細川忠興と玉子」から再現した塑像という。

手にする百合は聖母マリアを象徴する花といわれる。花言葉は「純潔・清らかさ」。二人が暮らした、玉造の越中屋敷跡に建つカトリック玉造教会「大阪カテドラル聖マリア大聖堂」の前にも、百合を手にするガラシャの石像があり、カテドラルの中に掲げられた堂本印象の描く「ガラシャ夫人」も百合の花を持っている。ちなみに小川立夫は堂本印象に師事した画家だ。

長岡市では、この年から毎年11月の第2日曜日に「長岡京ガラシャ祭」を開催。玉の輿入れの様子を再現する行列巡行などが行われており、 今年は11月10日に開催される。

百合を持つガラシャ
信仰という武器で闘った
 
 
これからはずっと一緒
没して400年以上も経たいまもヒロインとして注目されるガラシャ。生前中はガラシャが人前に出ることを極端に嫌った忠興さんだが、今では自分以上に人気者になり、こうして夫婦揃って銅像となってお天道様の下にさらされている。
天界で「まあ、それもよかろう。玉が喜ぶのであれば」と、忠興さんが言っていればいいのだが(笑)
 
 
 
プロフィール
文/写真:フリーライター・池永美佐子
京都生まれ、大阪育ち。
関西大学社会学部卒業後、新聞社、編集プロダクション、広告プロダクションを経てフリー。
雑誌やスポーツ紙等に執筆。趣味は温泉めぐり。現在、恋愛小説 に初挑戦?!
 
 
 
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