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第22話
「智仁勇」の三徳を備え、
稀有な戦略家だった戦国武将、楠木正成
 
 
文/写真:池永美佐子
 
大阪や神戸では『楠公 (なんこう)さん』『大楠公』の愛称で親しまれる楠木正成(まさしげ)。
地方の一豪族ながら後醍醐天皇に忠義を尽くし、鎌倉幕府を滅亡させた稀有な戦略家の武将として知られる。
戦後は、皇国史観、軍国主義の最たる人物として歴史の舞台から遠ざかっていたが、昨今、「智仁勇」の三徳を備えた日本を代表する英雄として再び注目を集めている。
大阪府河内長野市にある高野山真言宗の寺院、檜尾(ひのお)山観心寺は、正成が幼少期に学問を治めたとされ、山門東境外には騎馬姿で颯爽と駆ける大楠公の銅像が建っている。
「大楠公」像 (観心寺)
 
 
●観心寺で学問を治める
43歳当時の正成がモデル
学問所のあった中院

鎌倉末期から南北朝時代の武将、楠木正成。前半の人生は判明していることが少ない。

伝承では生年は永仁2年(1294)、河内国石川郡赤坂村(現・南河内郡千早赤阪村)の山里に生まれた。
幼名は「多聞丸(たもんまる)」。楠木一族は地元特産の水銀を売って経済力を蓄えた地方豪族とされる。
後に劣勢と知りながら後醍醐天皇に付いた背景には、河内地方の商業や輸送の利権を巡って幕府側との対立関係があったようだ。
一方、正成はこうした商業活動を通じて独自の流通ルートをつくり、寺社や民衆との強いネットワークを築いた。情報通で兵糧調達に長けていたのも、その成果と考えられる。
観心寺の塔頭の一つ中院は、楠木家の菩提寺。正成は8歳から15歳頃までここで滝覚(りゅうかく)という僧から朱子学を学び、後に加賀田の大江時親から兵法を学んだ。
また、観心寺は、空海が伝えた「四恩の教え」を教化の指針としている。四恩とは「父母の恩」「衆生の恩」「国王(社会)の恩」「三宝(佛・法・僧)の恩」だ。終生貫いた忠誠の精神は、ここで培われたのだろう。中院には、いまも正成が勉強したとされる学問所が残っている。
正成が後醍醐天皇のいる山城国の笠置山に参上したのは元弘元年(1331)、38歳のとき。鎌倉幕府打倒を狙う後醍醐天皇は、再度の倒幕計画が失敗に終わり、京を離れてここにある城に籠っていた。反幕府勢力はまだまだ少数派だった。
 
 
●奇襲戦法で敵を攻撃  鎌倉時代を滅亡に導く
天皇から倒幕の命を受けた正成はすぐさま河内に戻り、山中に築いた赤坂城(下赤坂城)に立て籠もった。数万騎ともいわれる幕府軍に対して、正成軍はわずか5百騎。しかもその大半は農民の地侍で、鎧もなく中には裸の者もいたが、ゲリラ戦法で幕府兵を攻撃した。
しかし、幕府の兵糧攻めに合い20日後に敗北。正成は城に火を放ち、密かに抜け道から脱出した。笠置山では後醍醐天皇が捕らえられた。
身を隠していた正成は、翌年再装備して河内や和泉の守護を次々と攻略し、摂津の天王寺を占拠した。幕府軍が鎌倉に援軍を求める中、正成軍は近隣の農民たちに協力を要請して何万という「かがり火」で天王寺を包み、敵兵を精神的に追い込んだ。
正慶2年(1333)、幕府はさらに8万騎もの軍勢で総攻撃を開始した。正成は新たに築城した上赤坂城を平野将監(しょうげん)に任せ、自身は千人の兵と共にさらに山奥の千早城に篭城。長期戦に備え、村の農民たちと連携して抜け道から城内へ食糧を運び込ませて勝利した。
その他、糞尿弾をあびせる、藁人形であざむく、油を注いだ水鉄砲や松明(たいまつ)で橋に火を付けて敵兵を谷底に落す「長梯子(はしご)の計」など、正成軍は一騎打ちにはこだわらず、奇略奇策を次々に編み出した。上赤坂城のあった辺りには、いまも「糞谷(くそんど)」という地名が残る。
圧倒的劣勢が勝利した噂はすぐに諸国へと伝わった。「千早城の戦いに続け」とばかりに各地の豪族が次々と反旗を翻し、ついには足利尊氏、新田義貞なども天皇側に転じた。

湊川に向かう正成
 
 
●敵将、尊氏に「天下無敵の勇士」と称えられる
観心寺山門
大楠公首塚
元弘3年(1333)、帰京した後醍醐天皇は、幕府・摂関を廃して、いわゆる「建武の新政」を開始する。
表面上は天皇親政の復活だったが、公家偏重の政治や、大寺社や武士に対する既得権の侵害や重い年貢など性急な改革は、武士の反発を呼び、建武2年(1335)年、足利尊氏が鎌倉で挙兵したのを機に、新政権はわずか2年半で崩壊することになった。
正成は天皇の命のままに、義貞と合流して摂津国の湊川に向かう。しかし、尊氏軍3万5千騎に対し、正成・義貞軍はわずか7百騎。もはや勝ち目はなかった。
1336年(建武3年)5月25日、尊氏軍の一斉攻撃で正成・義貞軍は力尽きた。正成は弟の正季と刺し違えて自刃した。享年43歳。
正成の首は一時京都六条河原に晒されたが、敵将、尊氏に「天下無敵の勇士」と称えられ、観心寺へ送られたという。境内では、これを葬って「大楠公首塚」がつくられ、この前では、いまも毎年、命日5月25日の前後の日曜日に「楠公祭」が行われている。
戒名「忠徳院殿大圓義龍大居士」は後醍醐天皇より賜わったとされる。
 
 
昭和49年に再建
台石と題字は創建時のもの
楠木正成の銅像では、他に皇居外苑(東京都)と湊川神社(神戸市)にあるものが有名だ。
南河内で楠公顕彰の動きが始まったのは、明治8年(1875)大久保利通が、赤坂村の生誕地を訪れたことに端を発する
昭和9年(1934)、大楠公六百年祭に合わせて、初代「大楠公」像が南河内郡小学校長会により建てられ、ここ観心寺に寄進された。資金は郡内の小学校教員や児童のほか一般有志や篤志家から5年計画で集められた。
「都を発って湊川の決戦に赴かんとする大楠公馬上の雄姿」─除幕式の様子を報じた同年7月13日の朝日新聞には、こう記されている。
初代銅像は、戦中の金属回収令により昭和19年(1944)に撤去されたが、昭和49年(1974)有志たちによって現在の銅像が再建された。創建時の容姿とは少し異なるが、台石と正面の「大楠公」の題字、裏面の撰文は創建時のもの。
楠木正成が表舞台で活躍したのは、わずか4年半にしかすぎない。にもかかわらず、人々の心に焼き付いて離れないのはなぜだろう。
観心寺のご住職・永島龍弘さんは、「大楠公の生き方が時代を超えて日本人の心に響くのは、潔さだと思います。これほど戦前と戦後で評価が変わった人物はいませんが、当地では昔も今も変わらぬ郷土の誇りです」と話す。
 
 
 
プロフィール
文/写真:フリーライター・池永美佐子
京都生まれ、大阪育ち。
関西大学社会学部卒業後、新聞社、編集プロダクション、広告プロダクションを経てフリー。
雑誌やスポーツ紙等に執筆。趣味は温泉めぐり。現在、恋愛小説 に初挑戦?!
 
 
 
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