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大阪や神戸では『楠公
(なんこう)さん』『大楠公』の愛称で親しまれる楠木正成(まさしげ)。 |
地方の一豪族ながら後醍醐天皇に忠義を尽くし、鎌倉幕府を滅亡させた稀有な戦略家の武将として知られる。 |
戦後は、皇国史観、軍国主義の最たる人物として歴史の舞台から遠ざかっていたが、昨今、「智仁勇」の三徳を備えた日本を代表する英雄として再び注目を集めている。 |
大阪府河内長野市にある高野山真言宗の寺院、檜尾(ひのお)山観心寺は、正成が幼少期に学問を治めたとされ、山門東境外には騎馬姿で颯爽と駆ける大楠公の銅像が建っている。 |
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元弘3年(1333)、帰京した後醍醐天皇は、幕府・摂関を廃して、いわゆる「建武の新政」を開始する。 |
表面上は天皇親政の復活だったが、公家偏重の政治や、大寺社や武士に対する既得権の侵害や重い年貢など性急な改革は、武士の反発を呼び、建武2年(1335)年、足利尊氏が鎌倉で挙兵したのを機に、新政権はわずか2年半で崩壊することになった。 |
正成は天皇の命のままに、義貞と合流して摂津国の湊川に向かう。しかし、尊氏軍3万5千騎に対し、正成・義貞軍はわずか7百騎。もはや勝ち目はなかった。 |
1336年(建武3年)5月25日、尊氏軍の一斉攻撃で正成・義貞軍は力尽きた。正成は弟の正季と刺し違えて自刃した。享年43歳。 |
正成の首は一時京都六条河原に晒されたが、敵将、尊氏に「天下無敵の勇士」と称えられ、観心寺へ送られたという。境内では、これを葬って「大楠公首塚」がつくられ、この前では、いまも毎年、命日5月25日の前後の日曜日に「楠公祭」が行われている。 |
戒名「忠徳院殿大圓義龍大居士」は後醍醐天皇より賜わったとされる。 |
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楠木正成の銅像では、他に皇居外苑(東京都)と湊川神社(神戸市)にあるものが有名だ。 |
南河内で楠公顕彰の動きが始まったのは、明治8年(1875)大久保利通が、赤坂村の生誕地を訪れたことに端を発する
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昭和9年(1934)、大楠公六百年祭に合わせて、初代「大楠公」像が南河内郡小学校長会により建てられ、ここ観心寺に寄進された。資金は郡内の小学校教員や児童のほか一般有志や篤志家から5年計画で集められた。 |
「都を発って湊川の決戦に赴かんとする大楠公馬上の雄姿」─除幕式の様子を報じた同年7月13日の朝日新聞には、こう記されている。 |
初代銅像は、戦中の金属回収令により昭和19年(1944)に撤去されたが、昭和49年(1974)有志たちによって現在の銅像が再建された。創建時の容姿とは少し異なるが、台石と正面の「大楠公」の題字、裏面の撰文は創建時のもの。 |
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楠木正成が表舞台で活躍したのは、わずか4年半にしかすぎない。にもかかわらず、人々の心に焼き付いて離れないのはなぜだろう。 |
観心寺のご住職・永島龍弘さんは、「大楠公の生き方が時代を超えて日本人の心に響くのは、潔さだと思います。これほど戦前と戦後で評価が変わった人物はいませんが、当地では昔も今も変わらぬ郷土の誇りです」と話す。 |
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プロフィール
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●文/写真:フリーライター・池永美佐子
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京都生まれ、大阪育ち。
関西大学社会学部卒業後、新聞社、編集プロダクション、広告プロダクションを経てフリー。 |
雑誌やスポーツ紙等に執筆。趣味は温泉めぐり。現在、恋愛小説
に初挑戦?! |
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