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第21話
「おかあさん、ありがとう」
箕面で親孝行をして銅像になった野口英世
 
 
文/写真:池永美佐子
 
日本が誇る世界的医学研究者、野口英世。若い人たちには日々お目にかかる千円札の肖像のイメージが強いかもしれない。
新千円札の顔として登場したのは平成16年。まだ9年もたっていないのに、いまでは前の伊藤博文を記憶から消し去るほどの圧倒的な存在感を放っている。
ところで、そんな野口英世の像が箕面公園に人知れず佇んでいる 福島出身の英世がなぜ?
箕面公園にある
野口英世像
 
 
●母を連れて接待の席に
試験管を右手に

誰もが一度は読んだことがある野口英世の伝記。

参考までにおさらいしておこう。
英世は明治9年(1876)福島県磐梯山のふもとの貧しい農家に生まれた。幼名は清作。2歳の時に囲炉裏に落ちて大火傷をする。母シカの必死の看護で一命をとりとめたが、左手の指が癒着してしまう。16歳で手術を受けて回復したことから医学を志し、伝染病の研究に身を捧げる。
明治31年(1898)、北里柴三郎の伝染病研究所に入り、同33年(1900)24歳で渡米して、ロックフェラー医学研究所員に。大正7年(1918 )、黄熱調査団に加わりエクアドルに研究行、昭和2年(1927)、アフリカのガーナに渡って研究中、自らも黄熱病に感染して翌年52歳で殉職・・・といったところだ。
そんな英世が、渡米してアフリカで亡くなるまでの間に、一度だけ日本に帰国したことがあった。大正4年(1915)、英世が39歳の時だ。全国各地から講演以来が殺到する中、英世は長い間寂しい思いをさせた母親を喜ばせたいと、関西講演で接待された箕面公園の料亭「琴の家」に母を連れて行くことにした。
 
 
●『おっかさん、これは鰹のさしみですョ』
10月10日、大阪の宿泊先から迎えの車に乗った英世と母シカは、小学校の恩師である小林栄夫妻、そして英世の才能を認め資金援助し続けた歯科医・血脇守之助らと共に大阪城を見物した後、「琴の家」に向かった。
料理が運ばれると、英世は自ら箸をとって料理を母の口元に運び、人目を憚ることもなくかいがいしく母に尽くした。
その姿を見て居合わせた女将や芸者たちは感涙したという。
この話は、新聞で報道され話題になった。
翌日大正4年10月11日に掲載された毎日新聞夕刊の記事が、図書館のデータベースに残っていたので紹介しよう。なんと108年前の新聞記事だ!

滝道からそれた山道に
そびえ立つ
 
 
 
「 〜略〜 同家(琴の家)の別座敷には、かねて召されたる富田屋の八千代、歌鶴、おともを始め、女将のお柳が待ち受けてすぐさまアッサリの昼餐会が開かれる、と、膳の上の刺身を執り上げて『おっかさん、これは鰹のさしみですョ、美味しいですか、ハハハ、小林の奥さん、あなたは焼肴がお好きでしたかネ、ハハハハハ』と、野口博士は隣の母堂や小林老人の手を取らんばかりに機嫌を取って、自分も夢中に嬉しがる。『山家で生まれて刺身なんぞ覚えもしないうちに外国へ参りましてネ、やっとこの十日ばかり前から食うようになりましたが、母などは唯だご馳走にたまげるばかりですョ、ハハハハ』〜略〜八千代の舞となってからは箸も取り落としそうな顔つきで気抜けのようになって居られる母堂の横顔を野口博士は覗き込んで『どうです、面白そうでしょう、サー、ご飯も召し上がれ、松茸の御汁ですョ???』と手づから給仕に余念もない 〜略〜 」
(注・旧漢字やかなづかいを読みやすく変換)
 
 
●感動秘話が広がり寄付金が集まる
道標の後ろの
斜面を登ると銅像に
台座の碑文
南川光枝もその光景を見て涙した一人だった。光枝は「琴の家」の亭主の妹で、後に店を継いで女将となった女性だ。
英世の生前の偉業を讃えるとともに、崇高な人柄を後世に伝えたいと、銅像を建てる決心をした。
とりあえず土地を売って50万円をつくり、銅像建立を願い出た。この話に大阪府知事や箕面町長、箕面町教育委員会が賛同。募金を呼びかけると、箕面ゆかりの人たちから続々と資金が集まった。寄付した人たちの中には近隣の小学校の児童も大勢いたようだ。
昭和30年(1955)11月22日、銅像の除幕式が行われた。英世の訪問から40年も経って建てられたことになる。
 
 
左手は腰に当てている
銅像は、箕面駅から大滝へ向かう滝道の中ほどから西へ少し上がった山道にひっそりと建っている。台座には、銅像建設の由来の碑文が当時の大阪府知事、赤間文三の名で刻まれている。
白衣を着て右手で試験管を掲げる姿は、東京上野の科学博物館前にある像を写したもので、作者は吉田三郎(1889−1962)。男子像に多くの名作を生んだ彫刻家だ。後ろに回ると、腰に当てているハンディキャップだった左手も確認できる。
ちなみに、同じ箕面公園の遊歩道脇には、母を背負って金比羅参りするご当地(三島郡豊川村)出身の笹川良一氏(財団法人日本船舶振興会会長)の像も建っている。
どんな偉人たちも、母の前ではピュアな少年に戻るのだろう。
5月12日は母の日だ。
 
 
 
プロフィール
文/写真:フリーライター・池永美佐子
京都生まれ、大阪育ち。
関西大学社会学部卒業後、新聞社、編集プロダクション、広告プロダクションを経てフリー。
雑誌やスポーツ紙等に執筆。趣味は温泉めぐり。現在、恋愛小説 に初挑戦?!
 
 
 
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