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第20話
東日本大震災後、教科書に再登板した
「稲むらの火」のモデル、濱口梧陵(はまぐちごりょう)
 
 
文/写真:池永美佐子
 
「稲むらの火」をご存じだろうか? 今から150年ほど前、紀伊半島一帯を襲った「安政の大津波(南海地震)」をもとに、防災訓話として戦前から戦後にかけて小学校の教科書に掲載された物語だ。
ラフカディオ・ハーン(小泉八雲・1850−1904)が英語で著した「A Living God(生き神)」を、地元の小学校教員、中井常蔵(1907−1994)が子ども向きに翻訳・再構成したものだが、一昨年の東日本大震災をきっかけに平成23年から64年ぶりで小学校の国語教科書に復活した。
この物語の主人公「庄屋の五兵衛」のモデルとなったのが、ヤマサ醤油の第七代当主だった実業家の濱口梧陵(はまぐちごりょう)。被災地の和歌山県有田郡広川町に立派な銅像が建っている。
「梧陵翁銅像」
(耐久中学校)
 
 
●「安政の大津波」で人々を救った村の英雄
人格者として慕われた
〜まずは「稲むらの火」のあらすじを見てみよう。〜
「これはただ事ではない」。いつもとは違う不気味な揺れ方や潮が引いて海岸が後退するのを見た庄屋の五兵衛は、津波が来ることを察知する。「なんとか村の衆に知らせなければ」。祭り準備に心浮かれている村人たちに危険を知らせるため、高台にある自分の田で刈り取ったばかりの稲の束(稲むら)に松明(たいまつ)で火をつけた。
火事と思った村人が続々と消火に駆けつけ、その眼下で大津波が村を襲う。庄屋の機転が村人を救ったのだ。村人たちは五兵衛の前にひざまずいた。(『小学国語読本巻十』(尋常科用)掲載「稲むらの火」より要約)
モデルとなった濱口梧陵(七代濱口儀兵衛)は、幕末の文政3年(1820)、紀伊国有田郡広村(現在の和歌山県有田郡広川町)に生まれた。父三代目濱口七右衛門は豪族・濱口家の分家で、本家は元禄年間から房州(千葉県銚子市)で醤油製造業を営む名家。「ヤマサ醤油」で知られる。
梧陵は長男だったが、幼少時に実父を亡くして母の手で育てられ、本家に跡継ぎがいなかったことから12歳で本家の養子となった。
房州の本家では「たとえ主人といえども少年時代に遊び暮らすことを許さず、自ら困難に立ち向かう態度を養い、人を率いる道理を得る」という家憲(かけん)の教えに従い、梧陵は丁稚と寝食を共にして厳しく育てられた。
 
 
●勝海舟との出会い。広村に私塾『耐久社』を開く
文武両道に優れた梧陵は、20歳の時に蘭医、三宅良斎の導きで西洋事情に目覚め、兵学と砲術の第一人者といわれた佐久間象山に弟子入りしている。
後に生涯の友となる勝海舟と出会うのもこの頃だ。梧陵は経済的に恵まれなかった3歳年下の海舟を何かと助け、互いに尊敬しあったと伝えられる。
嘉永4年(1851)、開国への夢を掲げる梧陵は、家業の傍ら広村に帰郷して広村崇義団を結成。翌年には若者たちに剣術や国学・漢学を教える私塾を開いた。  
安政の南海地震に襲われる2年前のことで梧陵は32歳だった。この私塾は後に「耐久社」と呼ばれ、変遷を経て、県立耐久中学校となり、現在の町立耐久中学校・県立耐久高等学校 につながっている。

耐久中学校の校庭に建つ
 
 
●物語とは異なる史実
稲むらの火広場の銅像
こちらは庄屋の五兵衛が
モデ ル(広川町役場前)

大津波は、安政元年11月4日と5日(1854年12月23日と24日)に起こった。両日ともマグニチュード8.4の巨大地震で、震源地は最初が東海沖、続いて紀伊半島から四国沖だった。津波は房総半島から九州にまで押し寄せ、全半壊建物は約6万棟、流失家屋約2万棟、死者約3千人に上ったという。

ハーンの小説や教科書では、主人公は高台に住む年老いた庄屋だが、実際の梧陵はまだ若い30代の商人。しかも町中に住んでいた。史実と異なる部分が多い。これはハーンが、大地震を記録することよりも村人たちから「生き神(A Living God)」と崇められた主人公の犠牲的精神をテーマに置いたためといわれる。
この他にも、梧陵が稲むらに火を付けたのは、津波が襲来してからで、村の田んぼの脱穀した稲むらに火を放って暗闇の中で逃げ遅れていた村人を高台にある広八幡神社の境内に導いた、というのが定説になっている。
 
 
●復興事業を興し、防災・失業対策に取り組む
「稲むらの火」では、人々を救出したところで終わるが、まだ続きがある。 津波で変わり果てた故郷を目にした梧陵は、被災した人たちのために炊き出しをし、小屋をつくり、農機具や漁業道具などを提供して復旧作業に当たった。
また、津波から村を守るべく私財を投じて防波堤を築造した。長さ600m、高さ5m、約4年の歳月と延べ約5万7千人の労力をかけた広村堤防は「昭和南海地震」(昭和21年)の津波から広村を守った。
堤防の中央部には、その偉業に感謝して村人たちが昭和8年(1933)に建てた「感恩碑」がある。  
広川町役場の西岡利記副町長は「濱口梧陵がすばらしいのは、人々を救っただけでなく、いち早く私財で復興事業を興して防災と失業対策をしたことです。
それがなければ広川町に人々は残っていなかったでしょう。さらに支援物資や義援金を募ったりボランティアの手配をしたり。いま行われている復興支援活動のすべてを、彼はこの時代にやっていたんです」と力強く話す。
南海トラフ巨大地震の被害想定でもある広川町では、高さ最大10mの津波到達が想定されており、さまざまな防災対策が進められている。

松明をもって必死で走る
(広川町役場前)
広村堤防
 
 
●受け継がれる梧陵の偉業と精神
濱口梧陵記念館にも
小さな銅像が 
(自宅収蔵されていたもの)

卓越した見識と人望、行動力を備えた梧陵は、維新後は政界で活躍した。

明治元年(1868)紀州藩勘定奉行を経て、同4年(1871)には新政府で初代駅逓頭(現在の郵政大臣)に就任。近代的な郵便制度の創設に当たった。晩年は郷里に戻り、和歌山県議会初代議長を務めた後、民主主義を広める活動を展開した。

65歳で長年の憧れだった欧米へ出発したが、翌年の明治18年(1885)、旅先のニューヨークで没した。その死を悼んで親友の勝海舟や福沢諭吉らによって横浜で会葬が営まれた。

それから1世紀余り。広川町では梧陵の偉業や精神、教訓を学び受け継ごうと、平成19年(2007)4月、濱ロ梧陵記念館と津波防災教育センターから成る「稲むらの火の館」がオープンした。
津波防災教育センター内の3Dシアターでは、地震津波の恐ろしさや威力をリアルに伝える一方、史実に基づく梧陵の「稲むらの火」の映画を上映している。
 
 
 
耐久中学校の校庭に佇む銅像は、梧陵の功績を称える町民らの力で昭和42年(1967年)に建てられた。台座の後ろの説明板には「関係各位の賛助を得てこの銅像を建つ、総工費6百万円 彫像は日展評議員でもある彫刻家、木下繁氏に嘱し」など刻まれている。木下繁氏(1908−1988)は、同校の卒業生でもある。
一方、広川町庁舎前の「稲むらの火広場」には松明(たいまつ)を手に走る男の像が建っている。
こちらは平成9年(1997)新庁舎建設の際にモニュメントとして建てられ、「稲むらの火」の主人公、五兵衛のイメージ像だ。制作は熱海市の彫刻家で「寛一お宮の像」の作者でもある館野弘青氏(1916−2005年)。
毎年秋になると、この広場から広八幡神社まで松明を手にした住民ら数百人が練り歩く「稲むらの火まつり」が行われている。
JR紀州本線湯浅駅から「稲むらの火の館」まで徒歩約20分。私はレンタサイクルで回ったが、周辺には銅像のある耐久中学校や広川町役場(稲むらの火広場)、広村堤防、感恩碑などが点在し「濱口梧陵と歩く散策マップ」が用意されている。
危機管理や防災に思いを馳せつつ、資料館で勉強したり副町長の熱い想いを聞いたりしているうちに、すっかり濱口梧陵のファンになってしまった。
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プロフィール
文/写真:フリーライター・池永美佐子
京都生まれ、大阪育ち。
関西大学社会学部卒業後、新聞社、編集プロダクション、広告プロダクションを経てフリー。
雑誌やスポーツ紙等に執筆。趣味は温泉めぐり。現在、恋愛小説 に初挑戦?!
 
 
 
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