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第19話
歌舞伎の祖となった天下一のストリートパフォーマー、出雲の阿国
 
 
文/写真:池永美佐子
 
「傾く」(かたむく)の古語にあたる「傾く」(かぶく)。今は使わないが、「異風を好み、常識を打ち破って派手なことをする」というような意味で、歌舞伎の語源ともなった言葉だ。歌舞伎とは元来、斬新で革新的な芸能なのだ。
京都・四条大橋の北東たもと、鴨川を背にして立つ「出雲(いずも)の阿国(おくに)」は、安土桃山時代から江戸初期にかけて活躍した天下一の踊り手で歌舞伎の始祖と謳われる女性。しなやかな肢体を派手な男性装束で包み腰にひょうたん、左手で刀を肩にかついでポーズを決めている、その姿はかっこよく名実ともに「傾き (かぶき)者」だった。
四条大橋の道向かいの南東角には、吉例顔見せ興業を終えて新年を迎えた歌舞伎の本拠地、南座がある。
「出雲の阿国像」
 
 
●勧進のために諸国で巡業
京阪四条河原町駅すぐ 
四条大橋の北東たもとに
舞台は関ケ原の合戦が終わったばかりの頃のみやこ、京。何百年も続いた乱世が終わり泰平の世にさしかかる時代の中で、阿国は天下一の舞踊家、今風にいえば人気ストリートパフォーマーだった。
伝承によれば阿国は、元亀(1570〜1573)もしくは天正(1573〜1592)年間に出雲国(現・島根県)で生まれたとされる。松江の鍛冶職、中村三右衛門の娘だったとも出雲大社の巫女だった言われるが真相は定かではない。旅芸人になったのは出雲大社の本殿を修理するための勧進(募資活動)がきっかけだったようだ。
同じ村の女たちと諸国を巡って「ややこ踊り」や「念仏踊り」などを披露するうち、才能が開花して舞いを生業にしたのではないだろうか。みやこに上った阿国が鴨川河川敷や神社の境内などで勧進興行をすると、並はずれて踊りがうまい阿国はたちまち人気者になった。
 
 
●四条河原で男装をして踊る
阿国の名を一躍世間に知らしめたのは、徳川家康が江戸幕府を開いた年の慶長8年(1603)春、四条河原で小屋掛けをして行った興行だ。阿国は男装をして颯爽と舞台に現れ、女装した男性を相手に茶屋遊びをする伊達男を演じて踊って観客の心を鷲づかみにした。
男装で演じ踊る「阿国歌舞伎」は大評判になったが、一つヒットすれば同じスタイルがいくつも現れるのは世の常。遊女たちが競って阿国歌舞伎を真似た。しかし、こちらは「遊女歌舞伎」と呼ばれ、純粋に踊りを極めて人々を楽しませたいと願う阿国の歌舞伎とは根本的に異なって売色を目的としたものだった。
そのため寛永6年(1629年)、幕府は女性が男性の恰好をして踊ったり演じたりすることを禁止した。そこで男の役者が男役も女役も演じる「野郎歌舞伎」が生まれ、これが今に連なる歌舞伎に発展していく。
一世を風靡した阿国も、慶長12年(1607年)17年、江戸城で勧進かぶきを上演したのを最後に足取りがとだえている。

晩年には出雲に戻って尼になったという伝承もある。没年も慶長18年(1613年)、正保元年(1644年)、万治元年(1658年)など諸説あり、はっきりしない。出雲大社近くに阿国のものといわれる墓があるほか、京都大徳寺の高桐院にも墓があるが、真相は明らかではない。

左手で刀をかつぐ
髪もバッサリ 
美貌の持ち主
 
 
●400年を経てドラマやミュージカルの主人公に
南座

ベールに包まれた阿国を、4世紀近く経ってスターに仕立て上げたのは作家の有吉佐和子(昭和6年〜59年)だ。徹底的な時代考証のもと、残されたわずかな記録をたよりに点と点をフィクションで埋めながら書きあげた長編小説「出雲の阿国」。

昭和42年(1967)1月、雑誌「婦人公論」に連載が始まると、世代や性別を越えて多くの読者を魅了した。権力に媚びることなく、純粋に踊ることを使命として真摯に、情熱的に生きたヒロインの人生は、その後テレビドラマやミュージカルになり、次第に阿国の実像として捉えられるようになった。
芸術選奨文部大臣受賞作品に輝いた三巻に及ぶこの大河巨編を読むと、時代が違っても芸能や芸術のもつ力、そして何より生きることの根源的な意味は何ら変わらないということを実感する。
 
 
台座に刻まれた説明板
南座の西入口
「阿国歌舞伎発祥地の碑」と
説明板がある
銅像は平成6年( 1995 )ライオンズクラブにより建立された。
台座には「かぶき踊りの祖 出雲の阿国 都に来たりて その踊りを披露し 都人を 酔わせる 平安建都千二百年を記念して」と、当時の京都府知事、荒巻禎一氏の名前とともに彫り込まれている。
四条川端通りを挟んで向かいにある南座の西入口には、松竹株式会社により昭和28年(1953)に、阿国が四条河原で男装して踊りを披露した年から350年を記念して建立された「阿国歌舞伎発祥地の碑」がある。
今や重要無形文化財や世界無形遺産にもなり、日本の伝統芸能の頂点に立つ歌舞伎。
先月5日には当代きっての人気歌舞伎役者・十八代目中村勘三郎が、惜しまれつつ57歳の若さで旅立った。
「歌舞伎は伝統を守るだけでなく、常に新しいものを創り出していくものだ」と語った勘三郎。コクーン歌舞伎(古典歌舞伎を新演出で上演)や平成中村座を立ち上げたり、現代劇の劇作家や演出家らと組んでの歌舞伎上演や海外公演にも精力的に行ったりした。彼もまた、阿国のマインドを引き継ぐ正真正銘の「傾き者」だった。
「河原の客こそ、踊りの客よ。おかしければ笑うわ、楽しければ手を打つわ。疎んじてはなるまいぞ」と言ったのは有吉小説の中に出てくる阿国だが、どうか "伝統"という名の名声に安住することなく、この原点を忘れない歌舞伎であってほしい。
 
 
 
プロフィール
文/写真:フリーライター・池永美佐子
京都生まれ、大阪育ち。
関西大学社会学部卒業後、新聞社、編集プロダクション、広告プロダクションを経てフリー。
雑誌やスポーツ紙等に執筆。趣味は温泉めぐり。現在、恋愛小説 に初挑戦?!
 
 
 
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