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第25話
シンボルロード御堂筋をつくり、文化都市・大阪を築いた関一
 
 
文/写真:池永美佐子
 
大阪のシンボルロード、御堂筋。黄葉にはまだ少し早いが、970本のイチョウ並木と高さを揃えたビルが整然と立ち並ぶ街並みは本当に美しく、「東洋のシャンゼリゼ」と呼ばれている。
その御堂筋が今の姿になったのは1937年のこと。以前はわずか3間(5.4m)しか道幅のない小路だった。
それを一気に6倍の24間(43.6m)に拡幅し、長さ4キロメートルにも及ぶ大縦貫道路につくり替えたのが、第7代大阪市長の関一(せきはじめ)。一見、破天荒なこの計画が発表された時、大阪市会(市議議会)では「まちのど真ん中に飛行場でも作るのか! 」とヤジが飛んだという。
大阪市役所の東、中之島にある中央公会堂と東洋陶磁美術館の間に立派な銅像が建っている。
関一銅像
 
 
●法学博士から転身、50歳で市長に
大正14年(1925)、周辺の町村と合併した大阪市の人口は225万9000人となり、214万3200人の東京を抜いて日本一となった。この数字は、世界的に見ても突出しており、ニューヨーク(597万人)、ロンドン(455万人)、ベルリン(403万人)、シカゴ(310万人)、パリ(290万人)に次いで第6位だったという。
また面積でも日本一となり、阪神工業地帯は京浜工業地帯に比べて生産高が約1.5倍あった。関一が大阪市第7代市長として活躍したのは、大阪市が「大大阪(だいおおさか)」と呼ばれていた、そんな時代だ。
関は明治6年(1873)、静岡県伊豆に生まれた。父親は小学校教員。東京高等商業学校(現一橋大学)を卒業後、大蔵省勤務、神戸商業学校(現兵庫県立神戸商業高等学校)教諭などを経て24歳で母校、東京高等商業学校の教授に。専門は社会政策論や都市計画論。「City planning」という外来語を「都市計画」と訳して日本に持ち込んだのも関といわれる。

そんな新進気鋭の法学博士が大阪市長に転身したのは、関の前に市長を務めた池上四郎が送った強いラブコールによる。

こんな小噺がある。

「池上四郎さんはえらい」。なぜか? 「関一さんをひっぱってきたから」

・・・なんて書くと池上市長の面目丸潰れだが、なかなかどうして。第6代大阪市長の池上も関と並んで名市長の誉れが高く、その銅像は天王寺公園に建っている。

当時、大学の花形学問と言えば法学や哲学。背景には、関が研究する経済学や経営学、商学は低く見られる傾向があった。関が望んだ母校の東京高商の大学昇格も叶わず、学界に残るよりも実践で学びを活かしたいという意欲にかられたのかもしれない。

「自由な発展を遂げる大大阪で、まだ日本のどこにもない産業基盤を」という池上の熱い誘いに乗った関は、大正3年(1914)大きな夢を託して大阪入り。大阪市の助役として8年間、池上市長をサポートした後、大正12年(1923)第7代大阪市長に当選。50歳だった。

中央公会堂を臨む
元法学博士
 
 
●地下鉄御堂筋線建設と合わせて行われた御堂筋拡幅
東洋陶磁美術館をバックに
「梅田と難波を一直線に結ぶ道路をつくり、大阪の心臓部に」という関が提案した御堂筋拡幅計画は、大正15年(1926)から地下鉄御堂筋線建設と合わせて始まった。
総工費約3,380万円は、現在のお金にすると100億円を超える額だ。
資金調達のため、関は完成後の予想利益から税金を徴収する「受益者負担制度」を導入した。
工事は難航した。明治44年(1911年)の大阪市電敷設で幅員22メートルに拡幅されていた淀屋橋交差点以北での拡幅工事は早々と竣工できたが、当時「淀屋橋筋」と呼ばれていた淀屋橋交差点以南は狭い道が入り組んでおり、用地買収に時間がかかった。予算の大半は立ち退き料に支払われたという。その工事に着手したのが昭和4年(1929)。完成したのはそれから8年後だ。
しかし、御堂筋竣工の昭和12年(1937)の5月11日。関の姿はなかった。
 
 
●コンセプトは「住み心地のいい街」
関は昭和10年(1935年)1月26日、腸チフスのため63年の生涯を閉じるまで、現職市長して11年6カ月在籍した。
この間、関は御堂筋や地下鉄創設以外でも、公営住宅や公園の整備、市民病院や市民館など社会事業の創設拡充、市営バス運行開始、大阪港建設、大阪城天守閣の再建、大阪商科大学(現・大阪市立大学)の開設などさまざまな都市政策を実施した。

大阪商科大学には日本初となる「市政科」(都市政策学科)を創設している。

「パリをモデルにした」といわれる関の都市計画だが、単に西洋を真似た近代的街並みやインフラ整備ではない。あくまで「住み心地のいい街」にすることにあった。

というのも経済活動が集中し利益追求に走ると、人間性が失われていくことを熟知していたからだ。

関は労働者の生活実態調査や大気汚染の観測も行い、住宅整備に力を注いだ。

完成した御堂筋の両側に植えられた約1000本のイチョウは、美観だけでなく都市の憩いや防災機能を意図したといわれる。

また、その先見性には目のみはるものがある。

地下鉄工事では、当時車両が1両しかないのに10両編成の列車も入線できる高いアーチ天井をつくって市民を驚かせた。ちなみに現在、御堂筋線の列車は10両編成で、アーチ上部が中2階通路空間として使われている。

器の大きな人物だった
 
 
●「市長」ではなく「関さん」と親しまれて
顕彰碑
御堂筋線の創設では、受益者負担金や立ち退きで反対運動もあったが、気さくで温厚な関は市民から「市長」ではなく「関さん、関さん」と呼ばれて親しまれた。
昭和10年(1935)2月1日、大阪市葬として行われた関一の葬儀には、8万人の市民が参列したという。
銅像は20回忌になる昭和31年(1956) 6月に関― 遺徳顕彰委員会によって建立された。
台座横の顕彰碑には「御堂筋を飾るいちょう並木の美しさと その下を通る地下鉄の便利とを考えてみるだけでも 博士の高邁なる識見と果断な実行力とが今なお生けるが如く市民の眼前に浮びあがってまいります」という一節が刻まれている。
 
 
 
当初市電の軌道を挟んで双方向の通行だった御堂筋は、交通量の増加で大阪万博が開催された昭和45年(1970年) 6車線一方通行になった。
昭和58年(1983)10月に大阪21世紀計画のプロジェクト立ち上げを記念して行われた「御堂筋パレード」は「御堂筋kappo」に引き継がれ、毎年秋に歩行者天国として開催されていたが、今年はそれも財政難を理由に5月の「御堂筋フェスタ」と同時開催となった。大阪都構想も飛び交う中、100年後を見据えたといわれる関市長がいまの大阪のまちや御堂筋や見たらなんとコメントされるだろうか?
 
 
 
プロフィール
文/写真:フリーライター・池永美佐子
京都生まれ、大阪育ち。
関西大学社会学部卒業後、新聞社、編集プロダクション、広告プロダクションを経てフリー。
雑誌やスポーツ紙等に執筆。趣味は温泉めぐり。現在、恋愛小説 に初挑戦?!
 
 
 
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