そんな新進気鋭の法学博士が大阪市長に転身したのは、関の前に市長を務めた池上四郎が送った強いラブコールによる。
こんな小噺がある。
「池上四郎さんはえらい」。なぜか? 「関一さんをひっぱってきたから」
・・・なんて書くと池上市長の面目丸潰れだが、なかなかどうして。第6代大阪市長の池上も関と並んで名市長の誉れが高く、その銅像は天王寺公園に建っている。
当時、大学の花形学問と言えば法学や哲学。背景には、関が研究する経済学や経営学、商学は低く見られる傾向があった。関が望んだ母校の東京高商の大学昇格も叶わず、学界に残るよりも実践で学びを活かしたいという意欲にかられたのかもしれない。
「自由な発展を遂げる大大阪で、まだ日本のどこにもない産業基盤を」という池上の熱い誘いに乗った関は、大正3年(1914)大きな夢を託して大阪入り。大阪市の助役として8年間、池上市長をサポートした後、大正12年(1923)第7代大阪市長に当選。50歳だった。
大阪商科大学には日本初となる「市政科」(都市政策学科)を創設している。
「パリをモデルにした」といわれる関の都市計画だが、単に西洋を真似た近代的街並みやインフラ整備ではない。あくまで「住み心地のいい街」にすることにあった。
というのも経済活動が集中し利益追求に走ると、人間性が失われていくことを熟知していたからだ。
関は労働者の生活実態調査や大気汚染の観測も行い、住宅整備に力を注いだ。
完成した御堂筋の両側に植えられた約1000本のイチョウは、美観だけでなく都市の憩いや防災機能を意図したといわれる。
また、その先見性には目のみはるものがある。
地下鉄工事では、当時車両が1両しかないのに10両編成の列車も入線できる高いアーチ天井をつくって市民を驚かせた。ちなみに現在、御堂筋線の列車は10両編成で、アーチ上部が中2階通路空間として使われている。