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第11話
全国を行脚して人々を救済した社会事業家、行基
 
 
文/写真:池永美佐子
 
行基さん。「行基菩薩」とも呼ばれるが、正式には「大僧正行基」というそうだ。

鑑真と並ぶ奈良時代の二大高僧として、小学校の教科書にも載っている身分の高いお坊さんなのだけど、私にはやっぱり「行基さん」の呼び名のほうがピンとくる。

全国を行脚して治水や灌漑、架橋、築港、溜め池の築造など、土木工事を推進したり、宿を作ったり。行く先々で困っている人がいれば、技術とアイデアで即対応するエネルギッシュな社会事業家だった。
「聖徳太子が上から仏教を広めたのに対し、行基は貧民救済や治水・架橋・築港など社会活動を通して下から仏教を広めた」と解説する人もいる。そういう意味では真の僧侶だったのだろう。
堺市西区にある家原寺(えばらでら)は、この行基の生家として知られ、境内を入って左手に大きなブロンズ像が建っている。「文殊菩薩」を祀るこの寺は、今の時期、合格祈願に訪れる受験生で賑わう。
家原寺に建つ行基像
 
 
●15歳で出家して薬師寺で修業
お百度祈願所に建つ
(家原寺)

 

舞台は奈良時代。行基は天智天皇7年(668)河内国大鳥郡(現・大阪府堺市)に誕生した。父の名は高志才智(こしさいち)、母は蜂田首虎身(はちだのおびととらみ)の娘古爾比売(こじひめ)。高志氏は、漢系渡来人、王仁(わに)の後裔、西文(かわちのふみ)氏の流れを組む家系だ。

15歳で出家した行基は薬師寺に入り、「瑜伽唯識(ゆかゆいしき)」を学び、さらに竜門寺で「法相(ほっそう)」を学んだ。瑜伽唯識というのは「空の思想」を基礎に置いた大乗仏教学派の一つ。
唯識をベースにした学問が「法相」とされる。私など凡人が聞いてもチンプンカンプンのこんな難解な学問を、行基はわずか15歳にしてたちどころに理解したと云われる。生まれながらの天才だったのだろう。
行基を導いた恩師、道昭は白雉4年(653)、遣唐使の一員として入唐し、玄奘三蔵(三蔵法師)に教えを受けたとされる人物。道昭は行基に土木技術も授けたが、道昭自身も晩年には全国を行脚して各地で土木事業を行ったという。
 
 
●資金を集めて公共事業を起こす敏腕プロデューサー
学問を修めた行基は、仏教布教のため近畿を中心に各地を巡り歩いた。しかし、行基の布教活動は説教をするだけではなかった。道昭から教わった土木の知識と技術を活かし、人々が困っていると聞けば溝を掘り、堤を築き、墾田を開発した。交通の難所には橋を作り、道を修繕した。それも指導するだけではない、自らが先頭に立って体を動かした。
土木工事だけでなく道場や寺も建立した。慶雲元年(704)、37歳のときに建立した「家原寺」は、もともと行基の生家があった場所とされる。以降ここに拠点に全国を行脚した。
また、平城京造営の際、労役の最中に過労や空腹で倒れる民衆を救うため「布施屋(ふせや)」と呼ばれる宿泊施設を作った。

弟子たちを引連れる行基軍団の回りには次第に人が集まった。手伝いたいと願い出る人たちが後を絶たず、体力のある者は労力を、資力のあるものは資金を提供した。行基は資金を集めて公共事業を起こす敏腕プロデューサーでもあった。

家原寺
合格祈願のハンカチで
埋まる本堂(家原寺)
 
 
●朝廷の弾圧と、東大寺大仏造営
資金調達力も卓越していた

一方、民衆を惹きつける行基を恐れた朝廷は、「僧尼令」に違反するとして弾圧した。しかし、行基による墾田開発や土木工事 の成果は大きく、弾圧すると地方豪族や民衆の反発を招くことから次第に弾圧を緩めた。

天平3年(731)、河内国丹南郡(現・大阪狭山市)の狭山池の築造を機に、朝廷は行基の技術力や民衆を動かす力を逆に利用するようになった。
晩年には東大寺の大仏建立に加わっている。天平13年(741)3月、聖武天皇と会見した行基は、東大寺の「勧進聖(かんじんひじり)」に起用され、建立の実質上の責任者となった。
勧進とは、寺院建立や修繕のために信者や有志者に説法して資金調達をする僧侶だ。
かつて民衆のため活動した行基が朝廷側の僧侶になったことについて「行基転向論」もあるが、一般的には権力側が行基の影響力を利用したと考えられている。

天平17年(745)には、その功績が認められて朝廷より日本最初の「大僧正」の位を贈られた。行基は東大寺の「四聖」の一人に数えられる。

大仏造立は順調に進んだが、完成を前に天平勝宝元年(749)行基は81歳で没した。東大寺大仏が完成したのは、その3年後の天平勝宝4年(752)。開眼供養には、行基がインドから迎えた菩提僊那が導師を勤めた。

遺骨は生駒にある往生院で火葬され、竹林寺に奉納された。

没後、行基は朝廷から「菩薩」の称号が下され「行基菩薩」となった。

 
 
今日も日本を見つめる
(家原寺)
私が行基さんを知ったのは、わが家の近くにある日本最古のため池「狭山池」を改修した人物として取り上げられていたのがきっかけだった。
近畿を中心にあちこち布教行脚やインフラ整備をした行基さん。その功績をたたえて寺院や地域で行基を祀っているところは他にも多い。
銅像があるのも家原寺だけではない。私の知るところだけでも10カ所は余りある。
その中で一番好きなのは、JR稲野駅近く、伊丹市にある御願塚古墳の前、県道を挟んで建つ行脚中の行基さん。右手に長い杖と左手に蓑笠を持つそのお姿は、まだ30代ぐらいだろうか、エネルギッシュで若々しい。
一方、これと対比的なのが、近鉄奈良駅前で東大寺の方向を向いてそびえ立つ晩年の行基さん。歳を重ね枯れた身体からは、凛とした気品を漂わせて神々しくもある。
生誕から1300年以上経た今も、タイムトリップして行脚を続ける。今日も期せずして日本のどこかでひょっこり出会えるかもしれない。
 
 
 
プロフィール
文/写真:フリーライター・池永美佐子
京都生まれ、大阪育ち。
関西大学社会学部卒業後、新聞社、編集プロダクション、広告プロダクションを経てフリー。
雑誌やスポーツ紙等に執筆。趣味は温泉めぐり。現在、恋愛小説 に初挑戦?!
 
 
 
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