基調講演⑤「開拓黎明期から繋ぐ、十勝の挑戦」
開拓黎明期からスマート農業へ
「変わりゆく」十勝の農業と「変わらぬ」アイヌの精神
~基調講演「開拓黎明期から繋ぐ、十勝の挑戦」~

帯広市川西農業協同組合 代表理事組合長
有塚 利宣 氏
基調講演の地元講演では、帯広市川西農業協同組合 代表理事組合長の有塚 利宣氏が「開拓黎明期から繋ぐ、十勝の挑戦」と題し、北海道十勝地域の農業の歩みを振り返りました。明治の開拓期から昭和の転換期、さらに令和のスマート農業まで、十勝の農業を支え続けてきた根底にはアイヌ文化があると力強く語りました。
開拓民の厳しい暮らしを支えたアイヌの精神文化
北海道の統治は、慶長9年(1604年)、現在の函館市周辺にあたる渡島地方を治めていた松前藩によってはじめられ、明治維新後の明治2年(1869年)に明治政府の開拓使が設置されたことで本格化しました。現在、広大な北海道は14の行政区域に分けられ、十勝もその一つですが、十勝の。開拓は明治16年(1883年)、静岡県出身の依田 勉三氏により始められました。
十勝の冬はマイナス35度にも達する厳寒で、樹木内部の水分が凍って「パン」と裂ける凍裂現象が起こります。春になっても冷害があります。5月に播付けが終わり、これから成長というときに霜が降り、雪が降ることさえあります。こうした厳しい自然j環境の中、多くの開拓民が最初に困ったのが出産でした。開拓民は、親を故郷に残した若者ばかりの寄合世帯で、出産を経験したことがない人たちがほとんどでした。そこで、先住民族アイヌの経験豊富な老女にお産を手伝ってもらいました。十勝にははるか縄文時代から続くアイヌ文化があります。出産のみならず発熱や腹痛などさまざまな病でどの野草を煎じて飲めばいいのか、負傷したら血止めや消毒はどうすればいいのか。開拓民はアイヌの医療文化に支えられてきました。
アイヌは、厳しい自然と共生する狩猟・採集民族です。生き抜くために大きな集団を形成し、しっかりした規律を守って生活しています。文字を持たないアイヌでは、集団を率いる酋長は口伝でさまざまなことを仲間に伝えて困りごとを解決し、弱い子どもや老人も集落内で平等に暮らしています。これはいわゆる共助社会、相互扶助の精神です。私は、そういう精神文化がこの十勝に根付き、今日の十勝の力になっていることの大切さ、そして、子ども、大人、大人、老人のそれぞれが役割をしっかり担うことの重要性を、さまざまな機会に広く伝えていこうと取り組んでいます。
国内の農産物生産量は年間約4300万トン
その12%を十勝のわずか4750戸の農家が担う
かつて日本は、50年に及ぶ戦争を行いました。太平洋戦争が始まると海外からの食料輸入が途絶え、昭和17年(1942年)には全ての食糧を国が管理する食糧管理法が施行されました。終戦を迎えても日本は貧乏のどん底、食べ物はなく、東京は焼け野原、国会議事堂前もイモ畑になりました。当時、日本の食料自給率はちょうど75%で、いわゆる戦後農政が始まります。
GHQによる戦後処理では、戦犯処理・財閥解体・教育改革などと共に、農業分野でも、不在地主の土地を国が買い上げて小作農民に分け与える農地改革が行われました。新たに土地持ちとなった自作農民は軍国主義教育を受けた身ですから、戦後も国のために一生懸命、食料の増産に取り組みました。
戦後15年余りを経た昭和36年(1961年)には、初めて、「農業の憲法」と言われる「農業基本法」ができました。農業構造の改善により農業振興を進めようと国が動き出したのです。私ども北海道も、14区域全てが貧乏で、どの地域も厳しい環境に直面していました。そうした状況にあっても、「十勝は別だった」と自負を持って言えると感じています。自分たちの農業は自分たちで守る、というアイヌに伝わる精神文化があったからです。
まず、冷害でコメが収穫できない5200ヘクタールの水田を全て畑に転換し、国に寒地農業を提言します。構造改善事業で馬鈴薯を作りたいからと、デンプン工場を4カ所に作っていただきました。それから、輪作体系に必要な作物として寒地に強いビートを栽培しました。ビートは当時、薬用として細々と作られていたのですが、それを砂糖に精製する製糖工場も3カ所設立。また、山岳地帯や濃霧に見舞われる海岸地帯など、畑作に向かない地域では、国から資金の代わりに牛を借りる制度を利用して酪農を始めました。その受け皿として北海道共同乳業(現よつ葉乳業)を設立しました。
このような経緯で今日に至るわけですが、現在、国の食料自給率はカロリーベースで38%です。コメ・小麦・砂糖など農業生産物の国内年間生産量は全国で約4300万トンですが、そのうち約12%に当たる520万トンが十勝で作られています。十勝の、わずか25万ヘクタールの農地で、4750戸にまで減ってしまった農家が、現在も日本中の食べ物の12%を生産しているのです。これは驚異的なことです。これこそ、先住民族アイヌの、自分たちのために自分たちの役割を果たそうとする開拓精神と、自然と共生する精神文化が根付いている証だと感じています。
変わりゆく十勝の農業
スマート農業で生産性を高め輸出も視野に
十勝の農業は規模を拡大していったのですが、一方で地方の過疎化が加速し、多くの開拓農民が都会へと戻っていきました。平成11年(1999年)には従来の農業基本法に代わる「食料・農業・農村基本法」が施行されました。これは、ウルグアイ・ラウンドに始まる農産物自由化の流れの中で、日本の農業を守るために作られた「新しい農業の憲法」です。ロシアによるウクライナ侵攻でも浮き彫りになった、自分たちの食料は自分たちの国で賄わなければいけないという現実、それを国民に約束するのが食料・農業・農村基本法に新たに盛り込まれた「食料の安全保障」の考え方です。
今後も人口が減っていく農村の生産現場が、食料安全保障の役割を担うためにどうすればいいのでしょうか。現在、私の地域で取り組んでいるのは、デジタルを駆使した「スマート農業」です。すでに私の農業現場では、スマホは農具の1つです。私のような高齢者でも、スマホから指令を出すだけで、4台の無人トラクターを同時に使って農作業ができます。今後も、そういう農業を展開していきたいと思っています。
私どもの農協では長芋を作っていますが、長芋は全国で13万トン以上生産されると国内市場が大暴落します。これでは農業は成り立ちませんので、輸出に活路を求めました。とはいえ過剰の時代ですから、輸出すれば今度は世界での競争があります。そこで、農村現場の役割として、世界中の消費者が安心・安全を認めるHACCP認証や、安全かつ高品質であることを示す国際規格SQF(Safe Quality Food)を取得しました。農業の生産現場もこのようにあらゆる英知を求めながら、輸出を国内の生産調整をする1つの手段として活用し、世界と戦っています。
今、日本ではコメ不足が指摘されていますが、日本中の叡智を集めて生産力向上に努め、それでコメが余ったら輸出したらどうでしょうか。世界では飢餓人口が9億人とも言われています。日本の農業は世界で戦える水準です。私どもは、輸出を農業の一つの柱として捉えているのです。
最後に皆さん、今、世界中で大変な気候変動が進行しています。地球が砂漠になる、地球沸騰、そんなことさえ言われています。穀物を1kg作るには、2トンの水が必要です。牛肉1kgを作るのに必要な穀物は11kg、豚肉1kgなら6kg、鶏肉でも4kgが必要です。それなのに今、水がぜんぜん足りずに、世界から穀物が入ってこなくなっています。いよいよ私ども、大地・北海道の農業の出番です。食べ物の安全保障を担う北海道です。これからも私どもはこの大地で頑張りますので、富士通ファミリ会の皆様にもご指導、ご支援をよろしくお願いいたします。
