郷土の三英傑に学ぶ


◆破章◆ 戦国を終わらせた家康

ieyasu
徳川家康がまだまだ若い19歳の時の話です。今川義元から織田軍との最前線である大高城へ兵糧の運び入れが命じられます。
大高城は最初、今川氏に属していたが、途中で織田氏に寝返り、城を落とされて再び今川氏の手に戻るというまさに最前線の城でした。

織田信長はすぐ近くに丸根・鷲津砦を築いて大高城を兵糧攻めにします。大高城は尾張を攻める要の城であり、今川としても死守しなければなりません。
家康は織田軍の妨害にあいながら敵地の只中にある大高城へ見事に兵糧を運び入れ困難な任務をやりとげます。

そこへ、とんでもない知らせが届きます。桶狭間で休憩していた今川義元を織田信長が急襲し、討ち果たしたという知らせです。今川軍はすでに算を乱して逃げていました。

家康にとって幸運だったのが大高城にいたことでした。ここは母親の実家ゆかりの城で、近在に知り合いも多く、今川側が負けても何とか脱出に成功します。ただ岡崎の大樹寺まで逃げた時、近臣18人だけでした。

●死を覚悟した家康

織田軍の追撃が岡崎にまでいたり、ついに家康のいる大樹寺をとり囲みます。もはやこれまでと前途を悲観した家康は大樹寺の松平家の祖先の墓前で自害することを決心します。
しかし、この時、大樹寺住職、登誉(とうよ)上人が家康に語りかけます。

「家康殿、戦国の世は、武士が自分の欲のために戦い、国土が穢れている。その穢土を厭(いと)い離れ、永遠に平和な浄土を欣い求めて、それを成すことが、あなたの役目である。」
これは「厭離穢土、欣求浄土」という言葉で、平安時代の僧侶である源信が書いた「往生要集」にあります。

家康は自分のミッションは戦乱で乱れた世の中を救い、平和の時代を作ることにあると悟ります。家康は再起を決意し、大樹寺の僧と共に織田軍を迎え撃ちます。やがて今川家の代官が逃げた後の岡崎城に入り、長かった今川家の支配からついに岡崎を取り戻します。

●元和偃武

織田信長と同盟を組み、やがて豊臣秀吉に仕える家康のかたわらには、いつも「厭離穢土、欣求浄土」の旗印がひるがえっていました。

月日が流れ、元和元年、大坂夏の陣で豊臣氏が滅亡し、ついに戦闘が収まりました。これを「元和偃武」と言います。「偃武」とは、武器を伏せて用いないという意味で、戦国乱世にピリオドを打たれたという意味です。

19歳の時に登誉上人に諭された家康は、それ以降、「厭離穢土、欣求浄土」の旗印のもと戦いぬき平和な時代を作りあげました。「元和偃武」となった時にすでに74歳になっていました。戦国乱世が終わったことを見届けた家康は翌年駿府城でその人生を終えます。

水谷哲也
※三英傑のイラストは、原田弘和様にご提供いただきました。無断で転載することは禁止されております。

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