◆第5章◆
郷土の三英傑に学ぶ経営戦略
- 家康、「ルールを変更する」 -
秀吉亡き後、家康の前に天下取りのチャンスがめぐってきました。
その前に立ちふさがったのが石田三成です。石田三成は先代社長の秀吉にかわいがられ、社長室長のような立場でした。
三成が挑んだ相手は秀吉と小牧・長久手で戦い一泡ふかせ、街道一の弓取りと言われた家康です。
秀吉亡き後、五大老・五奉行による集団指導体制となりましたが家康は筆頭社外取締役という立場でした。
●石田三成と武断派諸将とのミゾ
石田三成は官僚イメージが強いのですが文禄の役では最前線で戦って勝利をおさめ武将としての才能もありました。また補給や輸送、ことに経済に明るく戦国時代には得がたい逸材でした。
文禄・慶長の役では補給の続かない日本軍はベトナム戦争のアメリカ軍のように泥沼化してしまうと分析していました。何とか講和に持ち込もうと努力していましたが、これは武断派諸将および主君・秀吉には認めがたいものでした。この時に、武断派とのミゾが出来てしまいます。
家康は前田利家亡き後、豊臣家で気概のあるものは三成だけと考えていました。天下取りに向け、この武断派とのミゾを最大限に利用していきます。
●ルールを変更する
石田三成から見れば、家康は後継社長となった秀頼の豊臣会社を倒産させようとしている社外取締役という構図になります。また世間でもそう思っていました。
そこで「簒奪者・家康から主家を守る」というルールで三成は動きます。毛利などの諸将に働きかけ、わずか19万石でありながら、西軍をまとめあげていきます。
家康は武断派である加藤清正、福島正則らと石田三成との対立を深めさせていきます。また、武断派諸将らに影響力を持つ、正室・北政所の協力を得る事に成功します。
家康がこの時期に行ったことは三成が考えているルールと違うルールに変更することでした。
関ヶ原の戦いは石田三成にしてみれば、家康の覇権から豊臣会社を防衛することでした。ところがふたを開けてみれば豊臣政権内の官僚派と武断派の対立の総決算、つまり社内闘争の場に変わっていました。
豊臣会社を防衛する立場の事業部長達が石田三成の前に並んでおりました。宇喜多秀家隊の前に布陣するのは豊臣恩顧の武将、福島正則であり、黒田長政は秀吉の軍師であった黒田官兵衛の息子でした。
●市場ルールを変えて戦う
情報化が進んだ現代では、家康と同じように市場のルールを変えて戦うことが経営戦略として重要になってきています。
例えばリナックスというオープンソースの動きは、マイクロソフトが作り上げてきた、ソフトを供給して対価をもらうという市場ルールと全く違う市場ルールを作ってしまいました。これがマイクロソフトに多大な影響を与えています。
また株は豊富な情報を持つ証券会社の営業マンを通じて買うという市場ルールから投資家が自分の判断でネットを使い安い手数料で買うという市場ルールに変えたのが松井証券です。
御社も家康に見習い、市場ルールを変えて戦えないか検討してみませんか。
水谷哲也
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