郷土の三英傑に学ぶ


◆第6章◆ 郷土の三英傑に学ぶ資金調達

- 信長、旗印「永楽通宝」 -

ieyasu
信長の祖父の時代から水運の要であった津島の土地をおさえ、その経済力と共に成長したのが信長です。

城下町では楽市楽座を行い、まず市場を創出します。規制が撤廃され商売する人や物資が集まり賑わいます。またその賑わいが人を呼ぶことになります。この当時、明から輸入した永楽通宝が標準貨幣で、市場では永楽通宝が使われました。

信長には矢銭(軍資金)が市場から入ります。市場でやり取りされる永楽通宝が増えれば増えるほど信長の経済力は高まります。当時の岐阜城や安土城の城下町は今で言えば六本木ヒルズや名古屋駅のツインタワー のようなものでした。

また、足利義昭を奉じて上洛し、将軍からほうびに知行(領地)はいらぬかと言われた時、信長は知行よりも堺・大津・草津に代官をおきました。収益の上がる市場に管理人を派遣し、市場をおさえたことになります。

戦国大名の多くは鎌倉時代からの「一所懸命」で土地を中心に考え、そこから収穫される米を中心に考えていました。ところが信長は土地から生み出される収益、つまり付加価値に重きをおきました。つまり土地が有効活用されればされるほど付加価値が上がるということです。

信長は自らの旗印を「永楽通宝」としたように市場の力をいつも考えていました。

●市場ルールを変える信長

この経済力を何に使ったかといえば兵農分離です。この時代の兵士は、普段は農耕を行い、戦があれば武装して城に駆けつけるというスタイルでした。必然的に農閑期にしか戦ができないことになります。

そこで、信長は、農地を開拓する長男をはずし、農家の三男などを集め、これを常備軍としていきました。これは戦国時代では画期的なことで、信長軍は365日戦える手段を手にすることができました。維持するには人件費などがかかりますので経済力が必要となります。

戦国大名といっても多くは地方豪族の盟主のような立場です。地方豪族は地方の農民を組織して戦いに参加します。農閑期が終われば農作業をしなければなりませんので双方とも戦をおさめて帰ります。これが戦国時代の戦のルールでした。これを根底からくつがえしていつでも戦えるようにしたのが信長です。

企業が市場のルールに従って、シェア争いをしていたところに、全く違う市場ルールを持ち出してシェアを奪っていくようなものです。

また信長は専門集団を作り上げていきました。当時、地方豪族は鎧武者、槍持ち、鉄砲持ち、足軽などで構成された一団で、これが戦国大名の元に集まっていました。信長はこの構成をくずし、鉄砲隊や槍隊などの専門集団を作り上げていきます。そして鉄砲隊なら鉄砲隊の戦い方を編み出していきます。

●経営資源が少ないのなら信長に学ぶ

つまり信長は戦いのルールを変え、また戦い方を変えたことになります。これは信長自身、自軍の中心となる尾張兵が弱いことに自覚していたからです。

実際に信長の生涯にわたる戦の勝率は8割をきっています。ただし要所での勝ち方がうまく、負け戦の見極め判断と退却が見事でした。また負け戦を反省し、それを常に次の戦いに生かしました。

信長が桶狭間の戦に勝った時はまだまだ零細企業でした。

自軍の兵が弱い、つまり自社の経営資源が他社に比べ劣るのならば、それをカバーするのに何か手はないか?今戦っている市場のルールをもしかしたら変える手はないのか?皆が価値をおいているものと実は違うものに価値があるのではないか?

常に考え、少ない経営資源を駆使しながら零細企業を大企業に伸ばしたのが信長でした。

水谷哲也
※三英傑のイラストは、原田弘和様にご提供いただきました。無断で転載することは禁止されております。

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