◆第4章◆
郷土の三英傑に学ぶ工夫
- 「家康、負けて得する」江戸転封で旧来制度を打破 -
小田原攻めが終わり、秀吉から北条氏の旧領だった関東への移封が命じられます。
天下人になろうという秀吉にとって強大な軍事力を持つ家康は脅威でした。家康を京・大阪に近い土地から箱根の険の東に追いやることにより関東への封じ込めが行えます。
移封は旧領に比べて、100万石以上の加増です。ただし、北条氏の息のかかった土地を治めねばならず、うまく統治できなければ新領の240万石はただの数字です。
当時の関東は水はけの悪い湿地帯が広がっていました。家康の家臣から反対が巻き起こったのは、三河・遠江と違い、関東が荒れ果てた土地であったからです。江戸城の手前まで日比谷入江が入り込み、本丸と二の丸をつなぐ汐見坂からは海が眺められました。
■実収を増やす
家康は関東の土地を調べ、ここが穀倉地帯に開発できると考えました。戦国武将の戦いは領地、つまり農地を奪い合うゼロサムゲームです。当時は、米1万石につき250人前後の兵員を動員することが出来ましたので、軍事力増強には領土が必要でした。
家康は新田開発により領地を増やそうと考えました。江戸湾に流れ込んでいた利根川を東へと導き、太平洋につなぎます。江戸を洪水から守るようにし、広大な新田を開発していきます。
■旧来制度の打破
家康の家臣から反対が巻き起こったのは
、湿地の問題もありましたが、先祖伝来の三河の土地を離れたくないのが一番大きな理由です。
盟友だった信長は清洲、犬山、岐阜、安土と本拠地を次々と変え、家臣も異動させました。それまでの戦国武将の家臣は兼業農家で、農作業がない時に戦争をしていました。信長は兵農分離を行い、いつでも機動的に動かせる軍隊を作り上げています。
家康の場合、三河を地盤とする武士団が中心で、鎌倉武士以来の『一所懸命』で土地を守ることを身上とした強い武士団でした。家康にとっては宝でもありましたが組織を近代化していくうえでは障害でもありました。
秀吉の関東への移封命令は、内部改革だけではなかなか進められない兵農分離を外圧で一気に行えるチャンスでした。
家康は家臣団に
「ここで断れば、秀吉に徳川つぶしの口実を与えるだけだ。ここは我慢して新天地でがんばろう。」
と伝え、納得させました。実際にこの後、尾張・伊勢から家康の旧領への転封を拒んだ織田信雄は100万石を没収されています。
■江戸城へ
家康は苦労は多いが、徳川家臣団を革新できるチャンスと考え、負けて得しようと秀吉の命令に従います。
1590年8月1日、八朔の日に家康は江戸城に入ります。『八朔の日』というのは稲の実りを願う行事が行われる農業にとって大切な日で、家康はこの日を選びました。
新田を開発し、領国経営をしっかり行い、関ヶ原の戦いの際には実収300万石もの強国となりました。そして天下取りに大手をかけます。
水谷哲也
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