郷土の三英傑に学ぶ


◆破章◆ 副社長「ねね」

- 夫・秀吉と築いた豊臣株式会社 -

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14歳の時、「ねね」は秀吉と結婚しました。

秀吉が信長に仕え初めて7年目、まだまだ低い身分でした。「ねね」は浅野家の養女でしたが母方の姓が木下ということで入り婿の形をとり、この後、秀吉は木下藤吉郎と名乗ることになります。(※「ねね」の実家である木下家は城下カレイで有名な豊後日出藩主として幕末を迎えました。)

土間に薄べりを敷いて祝言をしたといわれています。この時、秀吉25歳。豊臣政権を二人で作り上げていく長い長い道のりの始まりです。

■人材教育にあたる「ねね」
秀吉は織田信長の元で一生懸命に働き、出世していきますが一代で成り上がったこともあり家臣団の層が薄く、育てていく必要がありました。数少ない血縁者を頼り、小姓として出してもらいます。

将来の豊臣家を支える人材の長期教育です。これに「ねね」があたりました。そして福島政則、加藤清正を育てていきます。

また岐阜に移ってからは竹中半部兵衛などの美濃衆、長浜城主時代には近江の人材を集めます。増田長盛、長束正家、石田三成、片桐旦元などは長浜時代の登用です。

戦国時代の城主の奥方は城主不在の場合は城主代理となり、領地のことや外交に関して重大な責任と権限を持っていました。これを「ねね」はこなしていきます。

■信長を必死に説得
「ねね」にとって一番大きな危機だったのが夫、秀吉の戦線離脱です。上杉謙信との戦いに柴田勝家を総大将とした方面軍が組織され秀吉も加わっていましたが、勝家と口論してしまい、兵を率いて長浜に帰ってしまいました。

信長は怒って閉門を申しつけます。秀吉は柴田軍で戦っても手柄が柴田勝家の手柄になってしまう。今なら中国攻めのポストが空いており、飛躍する大きなチャンスは今しかないと考えました。合理的思考をする信長なら人材のいない時期に死罪や追放はしないだろうというよみもありましたが、一歩間違えば死罪となる大きな賭でした。

夫、秀吉から考えを聞いた「ねね」は大きなため息をついて安土城に信長を訪ねます。

以前から、信長には珍しい贈り物を贈ったり、夫の浮気騒ぎの時には、才色兼備な「ねね」に秀吉が不足を言うのは言語道断であると「天下布武」のハンコまで押した信長の手紙をもらうほどの信頼関係を構築していました。

軍律には厳しい信長です。秀吉の戦線離脱を烈火のごとく怒っていますが、「ねね」の顔を見ると少しおさまったようです。「ねね」はここぞとばかりに秀吉にもう一度だけチャンスをくださいと懇願します。

松永久秀の謀反などもあり、信長には動かせる武将がいませんでした。

■中国攻めの総大将に
冷静になった信長は秀吉に中国攻めを命じますが、出す兵は少数で、これで何とかせいというものでした。軍律違反は違反であり、そのままでは周りに示しがつきません。信長から敵地で討ち死にしてこいという人数しか与えなかったのは、これで秀吉が死ぬのもやむなしと思い、また周りも納得すると思ったからです。

知らせを聞いた秀吉は「ねね」に頭を下げるばかりでした。兵の数は少ないとはいえ、方面軍の総大将、つまり事業部長です。中国地方に攻め入って死ぬか、それとも成果を上げるか一か八かの勝負どころでした。これが秀吉にとって天下取りへの大きな布石となります。

夫・秀吉と創業期から二人で苦労して作り上げていった豊臣政権ですが、「ねね」はその最後も看取ることになります。

水谷哲也
※三英傑のイラストは、原田弘和様にご提供いただきました。無断で転載することは禁止されております。

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