◆第2章◆ ここ一番の決断の時
- 中小企業の意地を見せる 家康・三方ケ原への出撃 -
家康が桶狭間の戦いの後、織田信長と和睦し、三河の平定に着手したのが20歳の時です。
ところが23歳の時に家臣が敵味方に分かれて戦う三河一向一揆が発生。何とか危機を乗り切り三河の経営を安定させた後、外部への拡大策へ乗り出します。この時、家康の前に拡がっていたのが今川家の領地、駿河・遠江です。
ただし大国である武田信玄も狙っておりました。そこで信玄と駿河・遠江の分割を約束し、家康は遠江へ進出。新しい領土である遠江の経営を安定させるため居城を岡崎城から浜松城へ移したのが29歳の時です。
当面は武田信玄と平和状態を保っていましたが、足利義昭の信長包囲網の動きから、信玄が甲斐を出発し、遠江へ進出、天竜川を渡り、浜松城に近づいて来ました。家康31歳の時、存亡の危機を迎えることになります。
戦国最強と言われた甲斐の武田軍団です。武田の兵力は2万5千、家康側は信長の援軍をあわせて1万1千、うかつに城を出ていけば負けるのは必定と、籠城戦の準備を行います。
ところが浜松城を攻めると思っていた武田軍は進路を変えて三方が原へと向かいました。
ここで追撃するかどうか軍議が開かれました。信長から派遣された佐久間信盛は信玄の挑発にのるなという信長の忠告を伝え、追撃に反対です。徳川家臣団は追撃派と籠城派に分かれました。
軍議の中で、家康の脳裏にあったのは、勝ち目がなくてもここで城から打って出なくては家臣がこの後ついてこないだろうという思いでした。
三河一向一揆の危機を乗り切り、内部体制を強固なものにしましたが、盟主が駄目であれば、家臣の裏切りなどがすぐに起きる戦国時代です。自身が切り取ってきた今川家の遠江が良い例です。勇猛果敢で知られる三河家臣団にとって武田にひるんで城から出なかったということは恥辱になるはずです。
軍議の最中に新たな情報が入ります。信玄が三方ヶ原の台地から、祝田の坂をのろのろと降りかかったという知らせです。大軍が狭い道を通ろうする絶好のチャンスです。
信玄の挑発とわかっていましたが、ここで意地を見せねばならないし、そこからチャンスをつかもうと家康は出撃の決断を行います。
「屋敷内を敵が押し通ろうとするのをとがめなければ武門の名折れぞ、出撃せよ!」
役者が一枚上なのは信玄でした。三方ヶ原で向きを変えて戦闘配備をしていました。家康は背後を攻撃するつもりが、正面から激突し、大敗してしまいます。
この後、信玄の死去という天運もありましたが、大敗したと言えどもあの信玄に挑んだ家康ということで戦国の世に知れ渡りました。
また退去する家康を落ちのびさせるため家臣たちが次々に敵中に身を投じ、討ち取られた家臣たちは、皆、武田方に向かって倒れていたと三河家臣団の勇名を天下に広めることになります。
この後、家康は武田戦法をよく学び、信玄に負けた自分の姿を肖像とし、生涯の戒めとしました。
信玄亡き後、武田勝頼が家康から奪った高天神城を再度家康に攻められた時がありました。勝機が無いと判断した勝頼は援軍を送らず天下に面目を失います。これが武田家臣団が勝頼を見限る遠因になっています。
水谷哲也
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