◆破章◆
- 中小企業社長家康の悲哀 -
家康が雨の中、関ヶ原の戦場に向かう時、「年老て骨の折るる事かな。倅(せがれ)が居たらば是程にはあるまじ」と亡き信康をしのび、独り言をもらしました。信康が切腹したのが21年前。偶然とは言え、関ケ原の合戦の行われた9月15日は、信康の命日でした。
21年前の事件と言うのは、後に2代将軍となる三男秀忠が誕生した家康38歳の時に発生しました。同盟関係を結んでいた織田信長が、家康の嫡男「信康」とその母親「築山殿」の殺害を命じた築山殿事件です。
築山殿はもともと今川義元の妹の娘です。家康がまだ今川家の人質であった時代、16歳の時に今川義元のすすめで築山殿と結婚、桶狭間の戦いの前に、嫡男信康が誕生しました。
ところが今川義元が桶狭間の合戦で織田信長に倒されてしまいます。家康は今川義元の跡を継いだ氏真に、信長を討つことををすすめますが、氏真にその意志がないことから、織田信長と清洲同盟を結び、三河を平定します。
家康26歳の時に、信康が同盟強化のために信長の娘の徳姫と結婚。家康は武田信玄と今川領の分割を約し、今川の領土であった遠江を侵食し始めます。いつしか今川に縁のある築山殿は家康と別居することとなったと伝えられています。
月日が流れ、武田勝頼が長篠で敗れた翌年に起きたのが築山殿事件です。通説では、築山殿が甲斐の武田と内通して夫の家康を倒し、わが子信康をたてて武田と連合で仇敵織田を倒す計画があると徳姫が信長に書状を送り、激怒した信長が家康に、築山殿と信康を殺害するよう命じたとなっています。
ただ、昔から、酒井忠次陰謀説、徳姫陰謀説、信長陰謀説など色々な陰謀説があります。
実は家康は武田と結んでいたのではないかという説もあります。三方ヶ原の戦いで敗れた家康が浜松城の城門を開き、かがり火を盛んにたいたところ、罠があると思った武田軍は攻め入らなかったという話が残っていますが、城攻めでは城門を開けるまでが大変で、本当は敗れた時点で武田と結んでいたのではという説です。
長篠の戦いでも武田勝頼が何度も柵へ攻撃を企てたのかよく分かっていません。2度ほど攻撃して鉄砲の威力で突撃の効果が無ければ、別の策を考えます。ひょっとすると突撃と同時に家康が裏切る約束をしていた可能性もあります。
そうなると信長が家康の忠誠心をためすためだった可能性も出てきます。いずれにせよ織田信長からのきつい命令です。同盟関係とは言え、ナンバーツーの立場でしかありません。袂を分って、ひとり立ちするのも難しく、泣く泣く腹心の家臣に二人の殺害を命じます。
事件から21年後の関ケ原合戦。21歳で亡くなった信康の導きか、家康は天下分け目の合戦を制し、天下取りに大きく流れが変わります。
水谷哲也
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