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◆第2章◆
ここ一番の決断の時
- アーリーステージからミドルステージへ 信長・上洛の即断 -
今川義元を桶狭間で破り、戦国時代の一角に躍り出た織田信長でしたが、次の美濃を平定するまで6年ほどかかってしまいました。
ようやく居城を小牧山城から稲葉山城に移し、井ノ口という地名を岐阜と改名しました。これは周の文王が岐山から興って天下を統一したという故事にあやかったものです。
織田信長をベンチャー企業と見立てると、創業し、不安定なアーリーステージを脱し、ちょうどミドルステージへと移行する時期となります。この段階で信長は自分の版図の拡大、つまりマーケットの拡大をねらいました。
不安定な時期を脱した今、会社を成長させるには、マーケットを一気に拡げることが肝心です。その為には、6年もかかって美濃を平定するやり方では駄目です。今までとは違った方法をとる必要があります。
信長が考えたのが足利義昭を奉じて上洛することです。信長の力と足利義昭の権威を合体させ、版図を拡大させるという戦略です。
まずは越前の朝倉義影に身を寄せている足利義昭との交渉を始めます。この時に活躍するのが明智光秀と細川藤孝です。
足利義昭は2年あまり越前の朝倉義影に身を寄せて上洛を要請していましたが、朝倉義影は動きません。一向に上洛しない朝倉に足利義昭がじれているという状況を見据えたものです。ただ、織田信長は、注目はされていましたが、まだまだ信用はありません。
そこで、上洛に向けてのアクションプランを実行し始めます。北近江を支配する浅井長政に妹のお市を輿入れし、同盟関係を強化しました。また南近江の六角義賢と深いつながりをもつ北伊勢の豪族を攻め、六角氏を牽制します。これで美濃から京都に至る道の準備を行いました。
また天下布武という新しい旗印を掲げました。「武力をもって天下を平定する」つまり戦国の世を終わらせるというアピールです。天下平定を目指すのは、この信長であるというアピールです。これは上杉謙信や武田信玄と天秤にかけようとしていた足利義昭への牽制となります。
ついに足利義昭が越前から動き、美濃に入ります。信長は丁重に出迎え、上洛の命令を発し、動員をかけます。尾張、美濃、北伊勢だけでなく足利幕府の復興という大義名分がありますので徳川家康も一族の松平信一に三河勢を率いさせて参加、浅井長政も参加し、軍勢は6万人にふくれあがります。
永禄11(1568)年9月7日に美濃を出発、南近江の六角義賢を追い払い、26日には京都に到着しました。信長と義昭が出会ってからわずか2ヶ月のことです。
その後、わずか10日ほどで三好衆の支配する山城、摂津、河内を平定、一気に版図を拡げます。そして10月18日、15代将軍足利義昭が誕生します。
水谷哲也
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※三英傑のイラストは、原田弘和様にご提供いただきました。無断で転載することは禁止されております。
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