郷土の三英傑に学ぶ


◆第6章◆ 郷土の三英傑に学ぶ資金調達

- 家康 鉱山開発で資金を稼ぐ -

ieyasu
三英傑はそれぞれのやり方で資金調達を行いました。

信長は流通に目をつけ津島、堺など収益の上がる市場をおさえました。楽市、楽座でギルドを廃止し、創業を容易にしました。また選銭を行うことでマネーサプライをコントロールし、市場経済の発展と共にキャッシュが手元に集まる仕組みを考えました。

信長の後を継いだ秀吉は太閤検地を行い、土地の私有から公有への転換することで中央に資金が集まる仕組みを作りあげました。では家康は資金をどうやってまかなったのでしょうか?

●鉱山開発

徳川幕府設立から初期の財政を大きく支えたのが鉱山でした。家康より以前、甲斐の武田信玄が金山開発を進めていました。甲斐では鉱山を掘る技術が土木技術として横展開していきました。治水で有名な「信玄堤(しんげんづつみ)」は成果の一つで現在も使われています。

武田信玄の強さと領国経営のうまさを誰よりも知っていたのが三方ヶ原の戦いで敗れた家康です。武田家が滅ぶと家康は積極的に遺臣を召抱えます。武田信玄の元で金山開発をしていた大久保長安をスカウトし金山奉行として登用します。

大久保長安は鉱山の知識が豊富で、西洋から学んだ最新の製錬技術などを駆使しました。従来の鉱山技術を一新することにより産金量が飛躍的に増大し、設立まじかの徳川幕府を支えることになります。家康は早くから貨幣鋳造権の重要性を認識し、関ヶ原の合戦の翌年に、金貨及び銀貨の鋳造を開始しています。

●五街道の整備

家康は貨幣鋳造を始めた同じ1601年に東海道に伝馬制度を作りました。その後、五街道に一里塚を整備し、宿駅制度を作っていきます。諸国の流通を支える商人が宿場に泊まりながら旅ができるようになり、物の流れがますます盛んになります。

江戸幕府が生まれた200年後には「東海道中膝栗毛」が出版されます。スリなどは出ましたが、旅の途中で足りないものがあれば買い、疲れたら馬にも駕籠にも乗れ、飛脚制度を使って旅先にお金を届けてもらったり、故郷に手紙や不要な荷物を送ったりできました。子供や女性だけで旅が出来る世界に例を見ない安全な交通網になっていきます。

●ケチで有名な家康

天領や鉱山から莫大な収入がありましたが家康自身はケチで有名でした。破れを繕った足袋を履くなどの逸話が残っていますが小さい頃から今川家の人質となったり辛酸をなめた経験があるからです。

15歳の頃、今川から一時帰国した家康に80歳を超えた老臣が岡崎城の蔵で今川家に内緒で蓄えた軍資金を見せた逸話が残っています。家臣が苦労し、いざ出陣という時のために貯めた軍資金です。こうした三河武士たちの苦労が家康の胸に小さい頃から深く刻み込まれていました。

家康はケチではなく倹約家でした。出張でグリーン車やファーストクラスを使うのでなく、上に立つ者が率先して倹約することで会社全体の利益を増やそうと考えていました。「倹約は天下のため、また子孫の代に国の費用が不足した時に役立てるためのものだ。」という家康の言葉が残っています。

●東の金遣い・西の銀遣い

家康の鉱山開発により江戸時代には「東の金遣い・西の銀遣い」という世界でも珍しい変動相場制が実現しました。金貨と銀貨を相場で交換するために両替商が発達し、大阪の堂島では米を銀貨で交換するため世界最初の先物取引が始まります。江戸時代には世界最先端の金融市場になっていきます。

家康が小判を作らせ金を管理していた金座の後は今は日本銀行になっています。銀の管理をしていた銀座は皆さんよくご存知のように東京の一等地になりました。

●最後に

2003年1月から連載してまいりました「郷土の三英傑に学ぶ」シリーズですが今回で終了です。

歴史に「もし」はありませんが、尾張に信長、秀吉が、すぐ隣の岡崎に家康が生まれなければ歴史は大きく変わっていたでしょう。
郷土が生んだ三英傑の色々な事例をぜひヒントに皆さんの事業を伸ばしていってください。
ありがとうございました。

水谷哲也
※三英傑のイラストは、原田弘和様にご提供いただきました。無断で転載することは禁止されております。

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