◆第6章◆ 郷土の三英傑に学ぶ資金調達
- 秀吉、太閤検地で構造改革を推進 -
秀吉が行った事業は色々とありますが、注目すべきは太閤検地です。小規模な検地はそれまでにも行われましたが、全国を統一した秀吉は大々的な検地を行いました。
太閤検地の目的は表向き、各地の米の生産高調査でしたが、本当の目的は土地の私有を無力化し、公のものにすることにありました。
●律令制度は土地改革、税制改革
かつて豪族が支配していた土地を公のものとし、その代わり豪族に冠位、官職を与える構造改革が行われたことがあります。律令制度の導入です。律令は刑法などを定める法治国家への脱皮でしたが、同時に土地改革、税制改革が行われました。
全国の豪族が支配する土地を一度朝廷に集約し、再度人々に分配します。戸籍をつくり良民に土地を与える代わりに税金を納めさせる制度でした。これが国家財政の基礎となり、効率的な国家運営が可能となりました。
しかし、その後、墾田永年私財法が生まれ、平安時代から室町時代にかけて荘園制度という形で『公地公民』が崩壊していきます。そして寺や貴族の私有地である荘園を守るために武士が生まれます。戦国時代となり、力をつけた戦国大名がかつての豪族のように土地を支配する形になってしまいました。
●『公地公民』を実現した秀吉
秀吉は太閤検地を行うことで土地を公のものとし、各戦国大名は公から領地を一時的に預かる存在としました。土地の私有から公有への転換です。封建制度を解体し、中央集権システムとすることが太閤検地の真の目的でした。
太閤検地により中世からの荘園制度が崩壊します。農村の中に色々な荘園の権利関係が重層的に存在していましたが、複雑な権利関係が整理され個々の土地の所有者と税金が決まりました。律令時代と同じように豊臣政権の財政基盤となります。
土地の所有権は公文書である『検地帳』によって保証されます。さしずめ検地帳は現在の土地登記簿のような存在となりました。それまでの私人である武士による保証ではなく、公によって自分の土地の所有権が守られる制度が確立されました。
●構造改革についていけない武士
太閤検地が推進された結果、武士は土地から切り離されることになります。気づかない間に戦国大名は一国一城の主から行政官僚の位置づけへ転換されてしまいました。鎌倉幕府の『一所懸命』以来、土地を守ることを中心に考えていましたが、今後は政権内で官僚として働くことを中心に考えていかざるをえなくなります。
太閤検地の、真の目的を理解し、推進していたのが石田三成を筆頭とする改革派でした。この
構造変化を理解している戦国大名は少なく、行政官僚として才能がある武士が政権内でどんどん重きをなしていくことが理解できませんでした。この後に関ヶ原の戦いが起きますが、別の面で見ると石田三成を中心とする改革派と従来の封建制を維持しようという保守派の戦いでもありました。
秀吉といえば、高松城水攻め等の壮大な城攻めや信長の草履取りから始まった立身出世等がイメージされます。しかし、それまでばらばらであった度量衡を統一し全国共通のスタンダードを作る等、実は中世から近世に時代変革するための色々な社会システムを作り上げた構造改革推進者でした。
水谷哲也
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