◆第5章◆
郷土の三英傑に学ぶ経営戦略
- 秀吉、「戦わずに勝つ」 -
孫子の兵法に「百戦百勝は善の善なるものにあらざるなり。戦わずして人の兵を屈するは善の善なるものなり。」という言葉があります。
つまり戦に勝つよりも戦わずに勝つことの方が上策という意味です。この「戦わずに勝つ」ことをひたすら考えたのが秀吉でした。
●強みをいかす
秀吉の肖像画が現在まで伝わっておりますが、信長が秀吉のことを「はげネズミ」と呼んだように顔はネズミ顔で、肩幅は小さく、どうみても体力はありません。
そのかわり秀吉には行動力がありました。明るく誠実で、人たらしとも呼ばれるほど細やかな心遣いがありました。また聞き上手でもありました。
そこで秀吉は体力勝負ではなく自分の強みをいかせる調略、「戦わずに勝つ」ことを徹底的に考えます。
●調略
桶狭間に今川義元を破った信長は美濃をめざすため最後に残った犬山城を攻めます。この時、秀吉は犬山城を取り囲む諸城の調略を信長に献策をしました。
当時の戦の評価基準はどれだけ敵の首をとったかにありました。
しかし信長は兵を損なわずに敵を倒せるのならそれに勝るものはないと合理的な思考をし、迷わず秀吉の策を採用します。
秀吉配下の蜂須賀小六、前野将右衛門は犬山城対岸にある伊木山の城を守る伊木清兵衛忠次と昔からの知り合いでした。
既に戦は始まっていましたが、何とか清兵衛と会い、説得します。
しかし伊木清兵衛忠次は秀吉と一面識もなく躊躇しており、そこで蜂須賀小六は秀吉と会わせることにしました。
秀吉は清兵衛の手を取り、「私は無冠の小心者ですが、殿にこの大役を仰せつかりました。清兵衛殿の忠節は私が一命に替えても殿に言上し、報いたいと思います。」と約束します。
清兵衛もこの人物ならと調略を受け入れます。
やがて鵜沼城等、次々と調略し、秀吉は東美濃の攻略に多大な功績をあげます。
●「戦わずに勝つ」を基本に
この後も、秀吉は「戦わずに勝つ」ことを徹底的に考えました。
姉川の合戦後、信長包囲網が形成され、織田政権がもっとも苦境に立たされた時期、浅井家小谷城の押さえとして信長は秀吉を任命しました。
小谷城のすぐ近くにある横山城は北国脇往還道を押さえる要衝にあり、ここに秀吉をおいた意味は、浅井家 家臣の調略を期待したからです。
小谷城から目と鼻の先でまさに最前線です。秀吉は小谷城からの攻撃を退けながら足掛け4年にわたって横山城を預かります。
この間、信長の期待に答え、宮部継潤等、巧みに説得工作を行い、調略していきます。やがて小谷城だけ孤立することとなり、信長の浅井攻めが始まります。
小谷城が落城した後、織田家にはそうそうたる家臣がいるにもかかわらず、新参者の秀吉に浅井家の旧領が与えられました。
秀吉は長浜城を築き、念願の大名となります。秀吉37歳。これ以降、羽柴筑前守秀吉を名乗ります。
水谷哲也
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