郷土の三英傑に学ぶ


◆第4章◆ 郷土の三英傑に学ぶ工夫

- 信長 鋼鉄の船を作る -

ieyasu
「天下布武」というスローガンを立て、勢力を拡げていた信長の前に大きく立ちふさがったのが石山本願寺です。

信長は戦略的価値から石山本願寺に土地の明け渡しを求めていましたが、石山本願寺は応じず、ついに挙兵します。これが11年におよぶ攻防戦となる石山合戦の始まりです。

石山本願寺は現在の大阪城の地にありましたが、この土地は上町台地の北端にあたります。東は大和川などが流れ、北は淀川、また西は湿地デルタ(後の埋め立て地が船場)になっていました。

比較的攻めやすいのは南の台地続きだけで、南の対策をすれば天然の要害という地です。大阪冬の陣では大阪城の南に真田幸村が真田丸を築き、徳川方は突破できず結局、和睦策に出ます。

力攻めは無理と考えた信長は石山本願寺を包囲し、兵糧攻めを行います。

兵糧が乏しくなった石山本願寺に、味方の毛利勢が村上水軍を派遣し、兵糧を積んで800の船で大阪湾に突入しました。

信長は300ほどの船で阻止しようとしましたが、村上水軍は「ほうろく火矢」を打ち込み、ほとんどの船が焼き払われて大敗してしまいます。

信長はすぐ反省し、水軍の増強と志摩出身の九鬼嘉隆に甲鉄船の建造を命じました。

信長のすごいところは面子などにこだわらず、反省すべきは反省し、次に活かすために工夫をこらす点です。

運の要素が強かった桶狭間のような奇襲は 二度と採用しませんでした。また長篠の戦いでは鉄砲の三段打ちで武田の騎馬隊を食い止めました。これも石山合戦で雑賀衆による絶え間ない鉄砲攻撃に大敗したのを反省し、工夫して次に活かした例です。

伊勢で建造が始まった甲鉄船は長さが約22メートル、幅が13メートルもある大船でした。しかも船体を鉄板で覆い、3門もの大砲を備えた戦艦です。

幕末のペリーの黒船を鉄船と誤解している人が多いのですが、実態は木造の軍艦で防腐・防水のためにタールを塗っていただけです。ですので戦国時代に甲鉄船を発想し、当時の超弩級戦艦を建造した信長の工夫は時代のはるか先をいっていました。

大敗から2年後、毛利の村上水軍と再び激突する時がきました。村上水軍600の船が兵糧を運び込むため木津川口に進入しようとした時に現れたのが、甲鉄船7船です。村上水軍にとっては見上げるような大船でした。

甲鉄船は村上水軍の「ほうろく火矢」を鉄板で防ぎ、大砲で大将船などを打ち壊し、壊滅させてしまいました。

この戦いにより補給路が絶たれ、長く続いた石山合戦の勝利を確定的にしました。
信長は石山本願寺が退去した後に丹羽長秀などに命じて築城をはじめ、安土から本拠地を移そうと考えていましたが、本能寺の変に倒れてしまいました。

信長の意志を引き継ぎ大阪城を築城したのが秀吉です。

水谷哲也
※三英傑のイラストは、原田弘和様にご提供いただきました。無断で転載することは禁止されております。

前へ前へ次へ次へ
>東海支部トップページへ > 郷土の三英傑に学ぶINDEXへ