◆第3章◆
郷土の三英傑に学ぶマーケティング
- 家康のマーケティング -
先日、明日香村から7世紀後期の木簡が見つかりました。その中に三川国と記載された木簡がありました。
三川というのは矢作川、菅生川(男川、乙川)、豊川のことで、この三川が三河の語源と言われています。
三河と聞くと、家康と三河武士団が想起されます。三河武士には耐え忍ぶ武士、主君家康の為には命を惜しまぬ武士という印象があります。
そのせいか映画などでは山に囲まれたやせた畑で、人質に取られた主君家康の帰りを待ちながら三河武士が耕している光景がよく映りますが、現実の三河は違います。
江戸時代のお座敷小唄に「五万石でも岡崎様は、お城下まで舟が着く」と歌われたように三川を使った舟運の発達した土地でした。また東西の交通を結ぶ流通拠点でもあり今川と織田は三河のゆたかな経済力を狙っていました。
この三河を根拠地としたのが松平家です。土着を始めて約3世紀、9代目が家康でした。
そのため松平家の譜代は深い地縁、血縁で結ばれておりました。他国に比べ、三河武士団の団結は堅固でこれが徳川の強みになっています。家康もその強みをいかすため、忠誠をつくす家臣に情愛を注ぎ育て上げていきました。
信玄に敗れた三方ヶ原の戦いでは家康を落ちのびさせるため家臣たちが次々に敵中に身を投じ、討ち取られた家臣たちは、皆、武田方に向かって倒れていたと三河武士団の勇名を天下に広めることになります。
浅井・朝倉と戦った姉川の戦いでは13段で備えていた織田軍が浅井勢に11段目まで破られ、あわや総崩れになるところを朝倉と戦っていた家康が、旗本の榊原康政に横槍を入れ、三河武士のふんばりで朝倉勢の進撃をくい止め、勝利へと転換しました。
戦の実績から家康に三河武士団ありと喧伝され、やがて家康は「街道一の弓取り」と呼ばれるようになります。
武士にとって家康についていけば道が開けると言う安心感となっていきます。つまり家康というブランドへの信頼感です。家康自身も「武士の棟梁」として武士たちの権益を保証する立場を演出していきます。これが天下取りへの大きな布石になっていきます。
家康自身が我に三河武士ありと大いにプロモーションしていた逸話が残っています。
「東照宮御實紀」によると関白秀吉がある時、宇喜田など諸大名を集めて、自分が所持する宝物などを自慢して、「さて、家康殿はどのようなお宝をお持ちですかな」と家康に尋ねたことがあります。
すると家康は「ご存知のように、それがしは三河の片田舎の生まれですので、何も珍しいものは持っておりません。ただ、それがしのためには、火の中、水の中へ飛び入り、命を惜しまない武士を五百騎ほど配下にしております。これこそ、この家康にとって、第一の宝物と思っております」と答えています。
秀吉は赤面して、「そのような宝を自分も欲しいものだ」と語ったと記録されています。
水谷哲也
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