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◆第3章◆
郷土の三英傑に学ぶマーケティング
- 秀吉のマーケティング -
鳴かぬなら 殺してしまえ ほととぎす
鳴かぬなら 鳴かせてみせよう ほととぎす
鳴かぬなら 鳴くまで待とう ほととぎす
三英傑の性格を見事に表現した句があります。
この句のように秀吉のイメージと言えば、明るい性格、プラス思考、卓越した行動力といったところでしょうか。
またプロモーションやイベント演出にも秀でた才能がありました。
天正九年(1581年)帝の前で絢爛豪華な馬揃えが行われた年です。ちょうど本能寺の変の1年前になりますので信長は48歳、秀吉は46歳でした。
6月、秀吉は中国へと出陣しました。
秀吉の軍勢は備前・美作を越え、因幡へと入り、吉川経家の鳥取城を取り囲みます。
しかし秀吉は城には攻め入らず、城の周りに堀を作り、周囲8kmに柵や堤を構築して包囲し、兵糧攻めを行いました。これが有名な鳥取城の干し殺しです。
12月、鳥取城を落とした秀吉は安土城の竣工祝いということで信長の元へ暮の挨拶に向かいました。
信長から饗膳を用意すると言われ安土城へ参上しましたが、この時、御祝儀として信長へ小袖二百枚を進上したほか、女房衆や若君にも多数の品物を用意してきました。
その贈物の数のおびただしさは古今に聞き及ばぬほどで、進物を乗せた台が安土城の門の中に入った時に、後の物はまだ安土の山下にあったというほどです。
時は戦国時代です。才能の無い主(あるじ)は見限る、これぞと思う主にはしっかり自分をアピールする時代でもありました。当然、他の武将も、進物を持って歳末の挨拶に来ていましたが、秀吉はその比ではありませんでした。
天守から秀吉の進物の列を眺めていた信長は笑っていましたが、他の者は肝をつぶしたそうです。
この秀吉の態度に対し、信長は「因幡国鳥取のこと、名城・大敵をものともせず身命をかけて一国を平定せし武功、前代未聞の栄誉である。」として感状を下しました。
また褒美として名物の茶道具十二種を拝領し、茶湯の会を開く許可も得てました。 これは信長配下の武将にとって大きなステータスでもありました。秀吉の見事なプロモーションの成果です。
秀吉はこの他にも醍醐の花見等、生涯、色々なプロモーションを行いましたが、最大級のものは城攻めでした。
鳥取城の干し殺し、高松城の水攻め、紀伊太田城の水攻め等、従来の戦を槍や鉄砲を使った争いから土木事業に変えてしまいました。そして現在に至るまでその戦法が長く語り継がれています。
水谷哲也
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※三英傑のイラストは、原田弘和様にご提供いただきました。無断で転載することは禁止されております。
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