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◆第1章◆
人材登用
- 追随型企業社長・家康に学ぶ人材登用 -
「人の一生は重荷を負うて遠き道を行くがごとし。いそぐべからず、不自由を常と思えば不足なし、こころに望みおこらば困窮したる時を思い出すべし。」
まさに苦難の連続でした。わずか3歳で母の於大と生き別れ、6歳から8歳まで織田信秀の人質に、8歳から19歳まで今川義元にも人質生活を強いられます。
桶狭間の戦いの後、やっと故郷の岡崎に戻りますが、3年後、元康から家康へと改名した年に三河一向一揆が勃発します。
三河では、古くから真宗の信仰が盛んな土地で、15世紀後半には一向宗の勢力地盤になっていました。これが領地経営を進めていた家康と衝突することになります。
やっかいだったのが吉良義昭ら豪族です。家康と同じく今川家の支配から解き放たれ、一揆に便乗して戦いに加わってきました。(この後、吉良義昭は戦死し、吉良家は途絶えますが足利将軍家と祖を同じくする名門でもあり、家康が援助して復活し、これが忠臣蔵の高家となります。)
家康にとって誤算だったのが、信頼していた家臣が一揆方に加わったことです。「岡崎の殿様の縁(えにし)は一代限り、だが仏さんとの縁は未来永劫」と家族に説得され戦っていた者もいます。また当時、加賀に一向宗が支配する国があり、理想郷になっていました。
家康が一揆勢の拠点にかけつけた時のことです。一揆に加わっていた蜂屋半之丞が家康が向かってくるのを見て、「まずい。まずい」と一目散に逃げ出しました。
「あそこで槍を持って顔を隠しながら走っているのは蜂屋ではないか?」
「殿、そのようで。」
「戦であれば、敵から逃げる男ではないのだが..わしの顔を見て逃げたのであろう。よい、捨て置け。」
この蜂屋半之丞は家中一の槍の名手で、後に徳川16神将にも数えらる人物です。「信仰か、主君か」で家臣も悩みながら戦っていました。
何とか半年ほどで一揆を平定し、家康は「お咎めなし」と自分に弓を向けていた家臣の帰参を許します。家康、この時23歳。
まだまだ若い家康です。腹の中は分りませんが、一揆側、家康側と家を二分して戦った家も多く、この寛大な処置に皆が感激することになります。家康としてもまだまだ人材が不足している中、優秀な人材を失いたくないと考えたのでしょう。
ですが、この配慮が家康への忠誠心をはさらに高めることになります。「この殿さまのためなら命もいらぬ」「これ以降は、絶対にこの主君についていこう」と三河武士が形づくられていくことになります。
時がたち、武田信玄と三方が原で激突、家康は完膚なきまでに叩き潰されました。
戦場から浜松城に敗走する家康の身代わりとなって家臣たちは次々と敵中に身を投じ、討ち取られた後も、武田軍に向かって倒れていたといいます。三河武士たちの敵に後ろは見せないという勇猛さ、忠節ぶりは「家康に三河武士あり」と天下に喧伝されることになります。
水谷哲也
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※三英傑のイラストは、原田弘和様にご提供いただきました。無断で転載することは禁止されております。
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