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みなさん、はじめまして。コラム"郷土の三英傑に学ぶ"を担当させていただく水谷哲也です。よろしくお願いいたします。
簡単に自己紹介させていただきますと、生まれは、戦国武将、藤堂高虎の城下町・三重県津市で、現在は中小企業のIT支援の仕事をしております。
次回から、このコラムでは東海地方から誕生した三英傑(織田信長、豊臣秀吉、徳川家康)の生き方を通じ、現代のビジネスに通じるそれぞれの人材登用のやり方、判断の見極めなどをご紹介していきます。
さて表題の「三英傑は本当はいなかった!?」ですが、
三英傑は歴史に華々しく登場する前に消えていた可能性がけっこう高かったようです。
そのターニングポイントになったのが桶狭間の合戦で、1560年、駿河、遠江の2ケ国の太守であった今川義元が尾張に進軍してきました。
桶狭間と聞くと、窪地で休憩していた今川軍めがけ風雨の中、大きく迂回し山から駆け下った信長軍が今川義元を討ち取るというイメージが映画などで強いのですが、近年の研究ではどうも窪地でなく丘陵地だったようです。
(異説もあります)
兵法の鉄則通り、高い方が有利と今川軍が布陣し、そこへ信長軍が丘に向かっての正面攻撃をかけました。
通常ですと、小高い丘の上から迫る信長軍が見えたはずですが、天の味方か信長軍の方から雹や大粒の雨がたたきつけるように吹き、信長軍が麓まで到達するまで今川方には分らず、結局、奇襲になってしまいました。
破れた、今川義元ですが分国法の制定など、領国経営がうまく、また用兵もうまく、今で言えば超優良企業です。織田信長など、まだ誕生したばかりのベンチャー企業でした。
織田家にとっては、いきなり自社の市場に巨大資本が乗り出してきたのと同じでした。このままでは倒産だと、捨て身で正面勝負をしかけたところなぜか勝ってしまったようなものです。
偶然、手にした大チャンスでしたが、これを大きく活かしたのが信長で、やはり非凡でした。また奇跡ともいうべきこの襲撃を、生涯みずから模倣することはありませんでした。
この時、織田信長27歳、そして秀吉は25歳。秀吉は信長に仕える前に今川側の松下加兵衛の元で働いた時期がありました。そのまま働いていたら桶狭間で今川側として討死していた可能性もあります。
そして、今川側として参戦した家康は19歳。桶狭間の時は大高城に入城していました。ここは母親の実家ゆかりの城で、知り合いも多く、今川側が負けても岡崎まで無事に帰れたのは、大高城にいたことが大きかったようです。
歴史に「もし」はありませんが、この桶狭間を起点として、三英傑の運命が大きく変っていきます。 |
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※三英傑のイラストは、原田弘和様にご提供いただきました。無断で転載することは禁止されております。
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