日本から世界へ、孤高の挑戦
水を得た魚のような池田の活躍が始まる。新たに開発されたリレー式コンピュータは、レンズ設計の計算に威力を発揮し、日本のカメラを世界的な水準にした。さらに事務用にも本格的に導入されるようになった。だが、リレー式はあまりにも演算速度が遅い。池田は早くからトランジスタに目をつけた。
当時、同業他社は外国メーカーと技術提携をして開発を急いだ。池田は、提携するならIBMしかない、と言った。しかし、IBMは技術提携は絶対にやらない方針だった。そこで、辛いが自主独立路線を貫こうということになった。
大型のIBMに対し、日本では小型・中型で対抗しようとする意見が強かった。しかし池田はただ一人大型に取り組むことを主張し、とうとうトランジスタ使用の大型コンピュータFACOM222(「フジツー」と俗称)を開発した。
さらに、初めてICを搭載したFACOM230-60は昭和43年に完成。コンピュータにおいて日本を米国とほぼ対等にし、富士通を国内一位にした。だが、それで満足するわけにはいかない。世界を相手にしたい。
それには、既存の膨大なアプリケーションソフトの国際的互換性を保証するユーザー利益優先」という基本路線をとるしかない。このIBM互換路線を採用するように主張したのも、池田だった。そのとき浮かび上がってきたキーパーソンが、ジーン・M・アムダール博士だった。アムダールは、コンピュータ時代を切り開いたIBM360シリーズを開発した人物で、その後継機の開発でIBMトップと衝突し、社外に去る。池田はさっそくアメリカへ飛び、アムダールと親交を結んだ。この縁から、IBMコンパチブルの超大型機Mシリーズが誕生する。後にこの互換路線はIBMとの間に紛争を引き起こし、AAA(アメリカ仲裁協会)が裁定を下すことになるが、それは池田没後のことである。
昭和49年11月10日、カナダのコンピュータ・メーカーCCIの社長を出迎えにいった羽田空港で倒れ、11月14日に帰らぬ人となった。51歳という若さであった。それはまさしく壮烈な戦死にほかならなかった。池田は当時常務だったが、亡くなって専務を贈られた。
社葬のおり、経団連記者クラブから是非にと弔辞の申し入れがあった。異例ではあるが、池田を慕う記者の代表がその死を悼んで読んだ。そのなかで彼は、「天馬空を行くがごとき活躍」と二回言って思わず絶句した。その姿は参列者の脳裏にいまだに焼きついて離れない。
FACOM128 演算リレー部分 電話交換機と同じものが使われている
参考文献
- 『池田記念論文集』
- 『富士通社史』
- 『技術開発の昭和史』(森谷正規著、東洋経済新報社)
- 『富士通の挑戦』(岩淵明男著、山手書房)
- 『男たちの決断 -- 物語電子工業史・戦後編』(板井丹後箸、電波新聞社)
- 『パックス・ジャポニカ -- 情報力が世界を征す』(國井利泰著、プレジデント社)
FUJITSU飛翔 No.3 (1990年9月20日号)
発行 : 富士通株式会社 CR部 (FUJITSU飛翔 編集室)
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