富士通

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コンピュータ企業への脱皮を先導した「信長型」戦略

当時の池田の上司が小林大祐だった。小林は第二次大戦中、レーダーでつかんだ敵機の位置を高射砲陣地へ送る「帝都防衛システム」の開発に加わった。ところが、肝心の高射砲陣地では旧態依然たる計算機を使っており、あまりに遅すぎて何の役にも立たなかった。それで、正確かつ迅速にデータを処理する計算機の必要性を痛感していた。

FACOM100と池田敏雄




さらに、昭和25年、MIT(マサチューセッツ工科大学)がまとめた第二次大戦中の軍用技術全集を読み、これからの富士通が取り組むべき新しいテーマの一つとして、コンピュータの開発を会社に提案した。小林は、自由奔放な池田の才能を存分に発揮させる場を整えるべく、社内の根回し役となった。


たとえば、当時の富士通は一日出勤しなければ一日分給料が減るという日給月給をとっていた。それで池田の勤務ぶりからして、月給ゼロ、賞与もゼロという時が続いた。さすがの池田も悲鳴をあげた。そのとき、池田をかばったのが小林だった。池田一人のために固定月給という特例で遇することになった。結局、池田は富士通の給与体系をも変えてしまったのだ。池田はまことに良き上司に恵まれたのである。


小林の提案を受けて、コンピュータの開発が会社の方針として決まった。ちょうどそのとき、朝鮮戦争の特需に沸き返る東京証券取引所の株式取引高精算用計算機を開発してみないか、という話が塩川新助を通じて舞い込んだ。塩川はすでに昭和13年、電気学会の大会で「電気回路によって、二進法計算が可能になる」という発表をしていた。


塩川を顧問格に、池田がチーフ、それに山本卓眞と山口詔規が加わってプロジェクトチームが発足した。塩川は、池田によれば「昭和の曾呂利新左衛門みたいな方」で、先輩として最適な人だった。


彼らプロジェクトチームは何回も合宿した。それぞれ仕事を分担したが、演算回路の設計を受け持った池田は、これも使える、あれもいいと、新しい回路図を次々と考えてはノートにせっせと書き付けて、なかなかまとまらない。結局、山本が池田をバックアップすることになった。後に山本は「池田さんは、この演算回路はシンメトリーできれいだ、などとはしゃいでいたが、こちらは設計を急ぐはめになり、気が狂うのではないかと思った」と回想している。

湯川秀樹博士とFACOM100


その後、山本は一時、計算機を離れたこともあったが、電算機課長となった池田が相変わらず昼間は会社に出てこないような仕事ぶりなので、昭和33、4年ころ、山本が課長代理になった。そのようなポストはそもそも会社にはなかったのだが、課長代理の名目で池田を補佐することになったのだ。池田はすばらしい後輩にも助けられた。


天才は、一般に孤立しがちである。池田の場合は、その天才を認め、支援を惜しまない上司、先輩、後輩に恵まれ、幸運であった。いや、池田の天才は幸運を引き寄せ、呼び込む天才でもあったといえるかもしれない。富士通という会社の側からいえば、日本の組織としては稀有なことなのだが、天才の足を引っぱることなく、逆に盛り立てることによって脱皮に次ぐ脱皮を重ね、自らをより大きく成長させていった。池田を信長にたとえる人がいる。信長は生涯に二度と同じパターンで戦わなかった。池田も、次々に新型のコンピュータを開発し、富士通の脱皮を先導したのだ。


山本は天才池田とのつきあいを回顧しつつ、こう発言している。「いまの日本の企業でも、天才の能力を組織的に生かす時代が来た……」すなわち「ちょっと変わっているけれども、仕事は相当やるな、とか、相当変わっているけれど、普通の人に出ない知恵を出すとか、いろいろな段階があると思います。そういう人たちを日本の社会にどう生かすか。これは変わりすぎているから会社のなかに置けないが、別の子会社をつくって、あるいは別の研究所に置いて腕を振るわせようとか、そういう工夫をしてでも生かそうという時代がきたのではないかと思います。」


この方法こそ、日本人のオリジナリティを世界に発揮させ納得させるもののように思われる。その意味でも、富士通における池田のケースは、貴重な先駆例として、もっと世に知らしめてもいいのではないだろうか。