富士通

  1. ホーム >
  2. 企業情報 >
  3. 会社概要 >
  4. 富士通ミュージアム >
  5. 池田記念室 >
  6. 池田敏雄ものがたり >
  7. 天馬空を行くがごとく生きた男 「ダイヤル事件」で認められた破天荒の天才

「ダイヤル事件」で認められた破天荒の天才


池田敏雄は1923年(大正12年)8月7日、東京市本所区東両国に生まれた。その年9月1日には関東大震災が起きている。


生家が両国国技館裏にあった関係からか、池田少年は相撲に興味をもち、ガキ大将だったという。東京市立一中(現在の都立九段高校)では柔道をやり、二段。また、バスケットボールは中学、高校(旧制浦和高校)時代を通じて続け、富士通入社後もチームを組んで国体3位となった。そのさい、センターとして出した65点という個人得点記録は、いまだに破られていないとか。あらかじめ数百通りもの攻撃パターンを考えて、きわめてシステマティックに仲間を動かすのが作戦だったようだ。その経験は、のちに数々のコンピュータ名機を開発するプロジェクトチームをリードするときに生きたことだろう。


半面、少年のころから、一人で静かに深く考え込む習慣も培っていた。数学が大好きで、数学の雑誌に載った難問を解いては賞金を受けたり、なかでも特に幾何が得意で、ピタゴラスの定理の新しい証明法を発見したりした。このような幾何への興味は、生涯の趣味となった囲碁とともに、コンピュータの回路設計に存分に活用されたことだろう。


囲碁はのちに五段になったが、日本棋院に囲碁ルールの論理矛盾を指摘。改善策を提案し、この貢献で六段を与えられ、亡くなってから七段を贈られた。とにかく池田は考え出すと、とことん究めずにはおかない人だったのだ。池田は生涯をかけたテーマに趣味と道楽を生かしきった幸せな人だった。池田の人生にはひとつの捨て石もなかった。

呉清源九段との対局



数学者になりたかったが、戦争が激しくなる状況の中で、技術者への道を選び、昭和18年東京工業大学電気工学科に進んだ。敗戦の混乱が続く昭和21年に卒業し、富士通の前身である富士通信機製造株式会社に入社した。


入社後まもなく、池田敏雄の名を高からしめる出来事が起きた。ダイヤル事件だ。富士通の電話機が初めて日本電信電話公社(現NTT)に導入されたが、ダイヤルの作動に障害が起きたのだった。社内は騒然となった。その中で池田はダイヤルの作動を理論的に解析し、問題の本質を明らかにした。これによって、池田の型破りを温かく許すムードが社内に浸透したのではあるまいか。


池田の研究への情熱に応えるように、会社は昭和23年、機構研究室を設置した。池田は研究室にこもり、交換機・電話機の改良研究に没頭し、ダイヤルスピードの精密測定が可能な電子式ダイヤル速度測定機を完成させた。これがきっかけになって、池田はコンピュータに目覚め、交換機のリレーを使用する独自のコンピュータ開発に取り組んだ。池田は「電話交換機用のリレーを回路素子として自動計算機をつくる」とよく話したという。この言葉こそ、富士通を通信機メーカーからコンピュータ・メーカーヘと変身させた、といってよいだろう。彼の研究は、コンピュータの前身である統計分類集計機へと花開き、昭和26年、都庁に納入された。