八戸の北行伝説

八戸市 三八城(みやぎ)神社
義経は高館の御所から見渡して、馬渕川の東の野原を京ケ原と名付け、また京ケ原の北の州先を京ケ崎と 命名したのが、今の三八城山だそうです。

「弁慶石」
三八城神社には力自慢の弁慶の足跡が刻まれていると言われている「弁慶石」が 現存しています。
「義経石」と呼ばれる石もあったと言われていますが、現在は行方不明となっています。
八戸市 長者山新羅(ちょうじゃさんしんら)神社
義経は藤原秀衡死後、脱出先を探るため家人の板橋長治と喜三太を八戸に派遣したと言われています。
板橋は市中心部の小高い丘に居を構えていたことから、当初は長治山と呼ばれていたようです。
現在は長者山新羅神社となっており、近くには同じ源氏の流れを汲む八戸藩主南部家墓所「南宗(なんしゅう)寺」もあります。

「長者山新羅神社」
この周辺には、板橋長治にちなんだ「板橋」という地名や、米の糠を捨てた場所 ということから名付けられた「糠塚(ぬかづか)」という地名が残されています。
【参考文献 ジェイアール東日本企画「トランヴェール2005.9月号」】
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