構造改革の火を絶やすな
国際基督教大学教授
八代 尚宏
2008年10月
本文
与野党を通じて小泉改革への逆風が吹き荒れている。特に、長期にわたった景気回復の終了宣言とともに、「痛みだけで恩恵のなかった構造改革」との批判も高まっている。しかし、こうした短視眼的な思考では、日本経済の衰退は止められない。
小泉政権以前は、政府が公共事業や減税で景気を支えていれば、後は民間の力で何とかなるという政策であった。しかし、税や社会保険料を負担する勤労者は減少する一方で給付者は増える、また、大企業は税率の低い海外に生産拠点を移すという、高齢化・グローバリゼーションが急速に進行している。そうした中で、戦後のキャッチアップ時代に形成された制度・慣行を、そのまま維持できる筈はない。
世界では冷戦の終結と欧州の統一化、中国・インド経済の隆盛等、大きな構造変化が生じているなかで、日本だけが過去の成功体験に固守し、「構造改革は是か非か」というような議論を行っている段階にある。こうした危機感が、多くの国民に共通していたことが、改革を叫んだ小泉総理に対する高い支持率に反映されていたのではないか。
しかし、小泉構造改革といっても、その実態は、膨大な不良債権の処理、膨張した公共事業の削減、巨大な官営銀行・保険の民営化等、歴代政権が放置してきた問題への対応という「後ろ向きの改革」に、多くの時間が費やされてしまった。これらの改革が痛みを伴う半面、即効的な利益が得られないのは、麻薬中毒患者の回復過程と同じである。経済の潜在的な成長力を高め、高齢化社会のピーク時にも維持可能な税・社会保障制度、等を目指す前向きの改革は、ようやく始まったばかりに過ぎない。
それにもかかわらず、既得権を守ろうとする業界団体等からは、「行き過ぎた構造改革」を見直し、旧き良き時代への回帰を求める動きも根強い。空港会社への外資規制、タクシーの台数制限、法曹人口の抑制、等の既存事業者を守り、昔ながらの新規参入者との競争を防ぐ思想である。これらの生産者重視の行政に対抗するためにも、逆に事業者間の競争を促進して消費者の利益を守るための、新しい消費者庁の役割が重要となっている。
こうした構造改革への逆行の動きはなぜ生じているのだろうか。それは90年代初めからの低成長とデフレの持続で、日本経済の相対的な地位が低下するとともに、非正社員が増え、賃金が低迷していることへの人々の不満の蓄積がある。そのはけ口となるものが、分かりやすい「悪者探し」である。
不安定雇用が増えたことの原因として、労働者派遣法の一連の規制緩和があげられている。しかし、規制緩和で増えたといわれる派遣労働者は、1,700万人もの非正社員の内の1割以下に過ぎない。また、非正社員の増加は、改革を進めた小泉政権以前からの長期的な傾向であり、90年代以降の経済成長の減速の下で、過去の高成長期のような正社員主体の雇用を維持できなくなったことが、より基本的な要因である。
何か政府の政策の失敗によって社会問題が生じているのではなく、逆に経済社会環境の変化にもかかわらず、過去の高い経済成長期に成立した制度・慣行が、そのまま維持されている「政策の不作為」が、所得格差も含めた社会病理の大きな背景となっている。
例えば、90年代末からの就職氷河期で、多くの若年フリーターが生じたことが、若年層の所得格差の拡大の大きな要因となった。これについては、「企業が利益追求のために、安い労働力を求めた」と説明されるが、そうした単純な階級対立論が通用するほど、現実の経済は簡単ではない。
97年のアジア経済危機で、大幅な売上高の減少に見舞われた日本企業は、バブル崩壊後の景気後退期さえ乗り切れば、再び4-5%成長の時代に戻れるという甘い期待を打ち砕かれた。そこで高い成長を前提に抱え込んでいた過剰な設備や雇用の調整という、これまで先送りしてきた課題への対応を迫られた。本来であれば、ここで過去の高成長を前提として成り立っていた厳格な雇用保障や年功賃金等の改革に取り込む好機であったが、労使協調路線を優先した結果、雇用慣行は維持したまま、新規採用を極端に絞ってしまった。
この結果、不況期の雇用調整のコストを、もっぱら若年世代に押し付け、定年退職者の補充は雇用保障の要らない非正社員に依存するという企業の対応は、高齢化社会の負担をもっぱら後代世代にしわ寄せすることで、当面の問題を回避する政府の年金や医療制度改革の遅れと、多くの共通点がある。
それにもかかわらず、企業の抱え込んだ過剰雇用のコストは著しく、労働分配率は90年の66.4%から2001年の74.2%まで一挙に高まった。仮に、日本企業が米国企業のように利益最優先の経営をしていれば、こうした労働分配率の急上昇は生じず、雇用需要の回復もより速やかに行われていたであろう。
若年者を中心とした不安定雇用の問題は、日本に古くから存在する企業内部と外部の二重労働市場から生じている。これが90年代からの経済の長期停滞で外部労働市場が拡大したことにより、社会的な「格差問題」として再認識されたのであった。
これはOECDが繰り返し提言しているように、正社員の働き方も含めた労働市場全体の「共通ルール」の速やかな構築として対応すべき問題である。それにもかかわらず、終身雇用・年功賃金の「良い働き方」を侵食する派遣労働等の「悪い働き方」を規制すべきという論調が圧倒的なことは、やはり形を変えた「既得権」の保持といえる。
安倍・福田政権では、公共事業費の削減維持、公務員制度改革や道路財源の一般財源化等、構造改革が継続されているが、交易条件の大幅な悪化や景気後退もあり、そうした政策からの転換を求める圧力は、与野党を通じて高まっている。しかし、経済や社会環境が大きく変化している中で「旧き良き時代の政策」に戻る選択肢は、もはやあり得ない。エネルギー価格の高騰に対しては、構造改革と結びつかない所得補償ではなく、高付加価値化や大幅なコスト削減を進めることで、逆にこれを産業の再生に結び付ける好機とするべきである。日本経済の構造改革は、まだ始まったばかりである。
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