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早急な自治体債務整理制度の整備を

富士通総研経済研究所研究顧問(早稲田大学教授)
岩村 充

2008年7月

早急な自治体債務整理制度の整備を

地方財政が苦しい。大阪府の橋下知事は、府の補助金等削減案に反発する市町村長との意見交換会で涙ぐんだという。交渉の場での涙には厳しい意見もあるようだが、自治体財政には地方債という過去のツケが重く覆いかぶさっている。過去のツケがかぶさっている点では多額の国債を抱える国も同じだが、地方債の問題には国債にはない本質的な困難が潜んでいる。それは、国は倒産しないが地方は倒産するという問題である。

国は倒産しないが

国が発行する債券を国債といい、地方自治体が発行する債券を地方債という。債券市場では、両者はともに公共債として分類され、同種の債権のように扱われることが多い。しかし、債務の履行可能性という観点からみると、両者はまったく異なった性質の債券である。

例えばの話であるが、経済成長の見通しの誤りあるいは不測の災害や戦争などによって、国が今までの税収見積もりでは賄いきれそうもない債務を抱えるはめになったとする。市場はどう反応するだろうか。国債の価値は下落するだろうが、話はそれにとどまらない。国債ばかりか国の信用の象徴ともいえる貨幣への信認も大きく毀損するだろう。多くの国の中央銀行のバランスシートには公開市場操作の結果としての大量の国債が抱え込まれているし、貨幣発行益の国庫納付制度も一般的だからである。もちろん、財政の将来に対する不安がインフレに直結するかどうかは、中央銀行の資産構成や政策スタンスのあり方によっても影響を受けるので、そこで何が起こるかを一概に言い切るのは難しい(1))。だが、それにしても、一国の貨幣価値とその国の財政に対する信認とが、その基本のところで分かちがたく結びついているのは明らかだろう。

しかし、皮肉なことではあるが、これは国債の履行可能性という観点からはありがたい話でもある。貨幣価値が下落するということは物価が上昇するということだが、物価が上昇すれば政府債務の実質ベースでの支払い負担は軽減される。もし、ハイパーインフレーションといわれるほどに物価の上昇が激しいものだとすれば、国の名目ベースでの債務証書である国債の価値も紙屑ほどのものでしかなくなるだろう。ところが、紙屑同然の価値しかない国債なら、その始末も紙屑を捨てるのと同じくらい簡単になる。政府はごく僅かの実質財源を用意するだけで国債を完済できてしまうはずだからだ。

ところで、このシナリオは国債という名の「債務」の本質を改めて考えさせるものでもある。国債の信用を究極的に支えているのは国力を背景にした財政に対する信頼であるといわれる。その国力とは、自動車とか穀物などの実物財の生産能力や教育観光などのサービスの生産能力、すなわち実質ベースでの経済力である。だから、その国力を裏付けにして国債を発行し、更にその国債を見合い資産として貨幣を発行していれば、国債への信認も貨幣への信認も国力についての予想に応じて伸縮することになる。私たちが国債と呼んでいるものは、形式こそ一定の時期に一定の貨幣をお支払いしますという約束を記載した債務証書なのだが、その経済的な価値を実質ベースで評価すれば、国債はむしろ国の株式のようなものだといえるわけだ。すなわち、国債で資金調達を行っている中央政府とは、自己資本比率100%の株式会社のようなものなのである。自己資本比率100%の会社なら、いくら業績が落ち込んでも債務不履行という意味での倒産はしないだろう。国も同じことである。国は、自国通貨建ての国債を発行している限り、いくら税収が落ち込んでも、決して倒産はしないのである(2))

では、これと同じことが国債と同じく公共債と呼ばれる地方債にも言えるだろうか。それは言えないだろう。自治体の税収がいくら落ち込んでも、だからと言って、地方債の表示単位となっている貨幣の価値が自動的に伸縮してくれるわけではない。大量の地方債を抱える自治体の状況とは、自己資本をほとんど持たないまま事業拡張路線を突き進んできた借り入れ過大企業のようなものである。あるいは、多額の外貨建て国債を発行してしまった国のようなものだと言ってもよい。外貨建て国債というのは、名前は同じ国債だが自国通貨建て国債とは意味が違う。その実質ベースでの負担が国力の伸縮に応じて伸縮などしてくれないからだ。そうした国では、国力の危機はそのまま債務不履行の危機につながるだろう。地方自治体の状況はそれに近いのである。

そう考えれば、福田首相は財政危機についてクールに語ることができても、橋下知事は涙ながらに叫ばなければならないのも無理はないように思えてくる。地方自治体の財政危機というのは、国の財政危機とは違って、直ちに倒産あるいは債務不履行の危険を心配しなければならない危機なのである。

地方の悩みは深い

地方財政に話をもどそう。2007年3月に北海道夕張市が財政再建団体に転落したことは耳目に新しい。しかし、仮定の話ではあるが、もし同市の経済活動に地域通貨のようなものが広範に普及していて、市の債務の大半が地域通貨建ての市債で賄われていたらどうだったろうか。地域通貨建て債務に依存する同市の財政に対する不安は、市債の価値だけでなく地域通貨の価値に対する不信を招いたに違いない。だが、そうだったとしたら、同市がいくら財政運営に失敗しても、それは人々に地域通貨価値の下落という迷惑をかけるだけで、市そのものの倒産にはつながらなかったはずだ。市の財政力の落ち込みとともに地域通貨の価値が下落し、したがって市債の返済負担も軽くなってくれたはずだからである。

いうまでもないことだが、これは仮定の話でしかない。仮定の話にしかならないのは、法律が許すかどうかという問題以前に、市の財政を支えるほどまでの大量の地域通貨を発行することが現実には難しいからである。国は通貨への信用を確保するために、予算制度を整備し財政法や日銀法を用意している。そこまでやるのでなければ、地域通貨は、地域経済の基盤整備や開発のような資本調達を支える「通貨」にはなり得ないのである。自治体財政とは、国の財政とは違って、貨幣価値維持への責任を分担しない代わりに、常に自身の倒産の危険を意識しながら舵取りを行わなければならない宿命の下にあるわけだ。国の財政危機と地方の財政危機とは同列に論ずべきものではないのである。

更に、現在の自治体の悩みには、国と地方との関係も大きく影響している。財政再建団体の制度が発足した1955年当時の状況をみると、何と18府県を含めて598自治体がこの指定を受けていたが(3))、その頃の論調と比べても、財政危機に対する深刻感は夕張市という自治体一つが財政再建団体に転落した今日の方が深いように思える。それは、おそらく、地方財政を債務不履行から支えるバッファーのような役割を果たしていた地方交付金が、財政再建の名の下で切り詰められる方向が明確だからなのだろう。地方交付金のような移転支出で国と結びついた地方政府であれば、その発行する債務の信用は、強力な親会社の支援のもとにある子会社債務のようなものである。そんな時代だったら橋下知事も福田首相と同じくらいクールに対策を論じていれば済んだのではないだろうか。

早急な自治体破綻法制の整備を

地方財政の悩みは分かったとして、それに出口はあるのだろうか。出口を見出すのは容易なことではないが、不可能なことでもあるまい。その基本は、地方は倒産するものだということを正面から見据えて、地方財政制度を再設計することである。

地方には財政再建団体指定という仕組みがあって、これが民間企業の倒産に相当するものだという説明がなされることがある。だが、財政再建団体は企業倒産とは本質的に異なる制度である。企業倒産の本質は、キャッシュフローで支えきれなくなった過去債務の切り捨てであり、それで投資家の損失を確定させ事業を再建する制度である。ところが財政再建団体という制度には、事業の整理という仕掛けはあっても債務の切り捨てという仕掛けがない。財政再建団体という制度は、地方自治体の経営自由度を奪うという点では倒産制度と同じだが、企業倒産法制において経営権のはく奪と対になっている過去債務からの解放がないという点では、企業倒産とはまったく異なる制度なのである。

この点に関して筆者が以前から不思議に思っているのは、2006年7月に報告書が提出された「地方分権21世紀ビジョン懇談会」と2007年6月に公布された「自治体財政健全化法」との関係である。同懇談会の報告書では、早期是正措置から債務整理に至る「再生型破綻法制」の整備の必要性が明記してある一方、同報告書をもとにしたはずの健全化法では債務整理の部分は外され、自治体財政への監視制度の強化だけが残されているからである。これでは制度設計としてのバランスを欠いていると言わざるを得ない。

よく知られていることだが、米国には、連邦政府の破産制度はないが、地方政府の破産制度はある(連邦破産法第9章)。米国における制度の大きな特色は、地方政府であっても破産手続きは裁判所の管轄下で進められることである。債務の切り捨てとは、要するに私人の財産権への介入であるから、それを含む破産手続きを管轄するのは行政ではなく司法の役割であるべきだからである。また、現実論としても、補助金や交付金で地方政府のガバナンス構造に実質的に介入している中央行政府が債務の切り捨てを仕切る役割を担うのは、行司が廻しを締めるどころか力士が軍配を握るような話で、そんな茶番が用意されている仕組みを誰も信用してくれるまい。信用が得られなくなれば資金調達だってできなくなるだろう。地方財政を「再生」しようと考えるのなら、再生のための試みが行き詰ったときの処理は、行政ではなく司法の範疇で準備されていなければならないのである。前述の地方分権21世紀ビジョン懇談会の報告書についても、その辺りの議論への突っ込みがもっとあれば法制度のあり様も変わっていたのではないだろうか。

日本の財政再建団体の仕組みとは、要するに財政困難な地方政府は職員を減らし事業を棚上げして、借金を返せという仕組みだともいえる。だが、地方が地域へのサービスをどこまでも絞っていったら、住民も企業も一人去り一社去りして、そして誰もいなくなってしまう。無人の自治体に請求権を持っていても、その請求権は永遠に履行されることはないはずだ。地方債のいくらかは請求権としては既に死んでいるのであり、死んでいる請求権を生きていることにして債務者を踊らせることがいかに大きな弊害をもたらすかは、バブル崩壊後の金融危機の時代に、いやというほど経験していたのではないだろうか。

国は倒産しないが地方は倒産するというのは、政策論の問題ではなく理論の帰結である。それを直視しない議論や法整備をいくら積み重ねても、知事の涙以上のものが生まれることはあるまい。

1) 
理論的にいえば、財政についての人々の見方が変化したときに中央銀行ができることは、その影響が貨幣価値に現れるタイミングを調整することでしかない。この点については本誌でも述べたことがある(2002年7月号及び2004年10月号参照)。
2) 
ただ、このためには、(1)国債の価値が自国の通貨で表示されていること、(2)自国の通貨が国力以外の何物にもリンクされていないこと、の2条件が必要である。こうした条件が満たされない場合には、国力の変化に応じて国債の支払い義務額が実質ベースで伸縮してくれないので、国は倒産の危険にさらされていることになる。
3) 
財政再建団体数はやがて減少し、最近では福岡県赤池町が1991年から2001年まで指定を受けていたが、それ以降はゼロとなっていた。

全文はPDFファイルをご参照ください。

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