富士通総研

百年前の財政危機

富士通総研経済研究所客員研究員(一橋大学物価研究センター教授)
渡辺 努

2008年4月

日経新聞で「財政再建」という言葉の登場頻度を調べると、2000年から2003年まで減少した後、2004年以降は増加してきたが、2007年には再び減少に転じている(図1を参照)。財政再建が一時棚上げされ、話題にのぼらなくなっている現状を如実に示している。

この現状をどう評価するかはともかくとして、筆者は財政再建に向けての動きは過去10年間、非常に緩慢だったという印象をもっている。それは消費税増税の本格的論議をこれまで回避してきたことに象徴的に現れている。もちろんそこには様々な政治的背景があるのだが、それにしても名目GDPの2倍にもなろうという政府債務を抱える政府の対応としてはずいぶんとのんびりとしたものであった。ではなぜ緩慢だったのか。

市場規律の欠如

まず財政危機とは何かを整理するところから始めよう。政府債務が膨らむと内外の投資家は政府の債務返済能力を疑い政府の発行する債務に対する需要が急減する。政府の発行する債務のひとつは国債であり、国債の価格が急落する。政府の発行する債務のもうひとつは通貨である。通貨に対する需要減は国内にあってはインフレを招き対外的には為替相場の下落を招く。これらの現象が互いに連鎖しながら生じるのが財政危機である。

ところが90年代以降の日本ではこうした現象は生じなかった。国債暴落や円下落、更には高インフレを懸念する論者は少なくなかったが、そうした予想に反して、国債金利は一貫して低位で推移してきたし、円相場にも通貨危機といえる下落は見られなかった。物価にいたってはインフレどころかデフレが発生した。

政府債務が累増しているにもかかわらず市場が安定していたことは、日本経済にとって間違いなく幸運なことだった。仮に国債価格が暴落していれば銀行の資本毀損は更に深刻なものとなったであろう。しかし良い面ばかりだったかというと決してそうではない。市場からの警告がないために財政再建に向けての動機が弱まってしまった。財政再建への動きが緩慢だった原因はここにある。

日露戦争後の財政再建

しかし日本政府も市場からの警告のある「正統な」財政危機を経験したことがある。日露戦争直後の財政危機がそれである。

図2の実線はわが国の政府債務の対名目GDP比率が過去120年間どのように推移してきたかを示している。この120年間で政府債務が増加する局面は3つあった。第1の局面は1905年の前後の時期である。これは日露戦争に伴って戦費が膨らみ、政府債務が増加した局面である。第2は1930年から1945年までの局面であり、これも戦費の膨張に伴って生じたものである。第3は1970年代半ば以降最近に至るまでの局面である。

2番目の局面では、1945年の敗戦によって債務返済に必要な税収の確保が不可能となったため、政府債務、とりわけ通貨に対する信認が崩壊し、激しいインフレが起きた。これは、政府債務の膨張が通貨価値の崩壊を招いてしまうという最も不幸な事例である。

これに対して日露戦争後の局面は同じ戦争とはいっても財政規律が機能した例である。図からわかるように、日露戦争直前の政府債務は名目GDP比で20%程度であったが、戦争直後の1906年には70%にまで達している。注目すべきはその後の低下である。政府債務は1906年以降、徐々に低下し、1920年には約20%と戦前の水準まで戻っている。この間、激しいインフレは起きておらず、政府債務の低下はもっぱら地道な財政再建によってもたらされた。例えば、1908年には桂内閣が「財政計画ノ大体方針ノ件」を発表しているが、その中には、非募債主義の採用や毎年度5,000万円以上の元金償還を行うことなど公債政策の大胆な転換が盛り込まれている。そしてこの政策公約はその後、曲がりなりにも実行されている。

ジャパンプレミアム

なぜこのように思い切った財政再建が可能だったのだろうか。第1の要因は国債投資家からの厳しい圧力である。政府は日露戦争時の戦費の約8割を国債と借入金で調達した。一部は内国債で賄われたものの、当時は国内貯蓄が不足していたため、その大部分はロンドンで発行される外国債に頼らざるを得なかった。しかし戦後の一時期は、日本の財政基盤の弱さから日本国債は不人気で、敗戦国ロシアの国債よりも低価格だったこともある。例えば、1904年に発行された英貨国債は年利6%と他国と比べ著しく不利な発行金利であり、しかも担保として徴税権(関税収入や煙草専売益金)を差し入れるという屈辱的な内容になっている。今風に言えば、ジャパンプレミアムが発生していたということである。「財政計画ノ大体方針ノ件」には「内外不安ノ念ヲ懐キ公債ノ価格低落シ内外ノ資本主皆我證券ニ投資スルヲ好マサルニ至リクルハ寧ニ當然ノ結果ト云ハサルヘカラス」との記述が見られる。

こうした中で、当時の政府にとって海外投資家からの信用を高めることは緊急の課題であり、そのため政府は債務の返済計画を幾度となくロンドンで説明している。一方、内国債の保有者である国内金融機関やその背後にいる財界からも政府は債務の履行を厳しく迫られていた。金融機関は国債価格の低下を強く懸念していたためである。このように政府の行動は外と内の投資家によって厳しく監視されており、これが財政再建の強力な動機づけとなった。

第2の要因は為替相場が崩落の危機に直面していたことである。当時は金本位制下にあり、金との間で固定された為替レートを維持することが重要であった。その失敗は金本位制からの脱落であり、それは国際金融市場から締め出されることを意味していた。このため日本銀行をはじめとする金融機関や財界からは正貨危機を何としても回避すべしという要請が政府に対して繰り返しなされた。政府は、円の背後には確固たる財政基盤があることを証明することを迫られ、それが「財政計画ノ大体方針ノ件」のような政府による政策コミットメント(約束)を生み出した。

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