境界なき世界と個性的生き方
独立行政法人 国際交流基金理事長 小倉 和夫
2004年4月
要旨
高度な情報技術の発達とその活用は、今や、現実の世界と情報によって作り上げられた世界との境界を曖昧にしつつある。
精巧な技術によってコンピューター上に作り上げられたものと現実との類似がほぼ完璧に近くなればなるほど、現実の世界と情報世界とは混同される。
それだけではない。殊更に現実の世界を情報世界で置き換えるという奇妙な現象すら現れている。墓地をインターネット上に設置し、そこでお経をあげて故人を偲ぶという試みや、インターネット上に全く架空の恋人を作り上げ、これに恋文を送って恋愛関係に入るといった試みが、世界のあちこちで起きている。他方、戦車が動き、飛行機が飛び、兵士が合い闘うことが戦争であった時代に代わって、パソコン上の電子戦争が現実の戦争となる時代が近づいている。
情報技術の発達と大衆向きのメディアの氾濫は、別の境界もあやふやにしている。「公」と「私」の境界である。
俳優や政治家の私生活を暴露して報道するのは、昨今のマスメディアの習いになりつつあるが、これも、有名人を知的な分析にかけて丸裸にし、ある種のカリスマ性を剥奪して、所詮は彼らも自分たちと同じ人間に過ぎず、いわば、説明可能な人格であることを証拠だてようとしているように思える。かくてカリスマの消失と並行して、「公」と「私」の境界は崩れ、全ての人々が同じ次元に立たされようとしている。長屋の心理が社会全体に蔓延しつつあるのだ。
境界の曖昧さは、男女にも及んでいる。単に男の格好や髪型が女性に似てきたとか、女性の社会進出に伴って、色々な形での男女の差が無くなってきただけではない。男とか女という観念の根本が問われ出している。
オランダやフランスでは、一件奇妙な法律が成立している。男同士、または女同士が、市役所に婚姻の登録をすれば扶養控除や遺産相続など全て男女間の結婚による夫婦と同じように扱うというのである。また、性転換手術を受けて女性となった男性が売春に立つと言っても、果たして彼(彼女)が男を相手とするのか、女を相手とするのか判らない昨今である。
男女の境界が曖昧になってきたということは、逆に言えば、女らしさ、男らしさという観念が消滅しつつあることを意味する。現代の広告を見ていると、女性から恥ずかしさとか控えめさが消え、いたずらに挑発的な写真が目立つ。一方、男性はどこか柔らかく、繊細に見える者が多い。
男女だけではない。子どもらしさとか、学生らしさといったものが大きく崩れ、子どもの犯罪、子どもの性行為が氾濫し、またそれに合わせて子どもを大人のように扱って、現実には、子どもを虐待する人々が後を絶たない。
子どもと大人の境界がはっきりしないことは、生徒と教師の間の境界も曖昧となることに他ならない。生徒が先生を、君呼ばわり(ファーストネームやチュトワイエ)し、職場で上司を肩書きで呼ばない会社が数多く出現している。
こうして、男女・身分・職業・年齢などによる境界が崩れれば崩れるだけ、人々の服装や身なり、振る舞いも違いが希薄化していく。
こうした現象は、ある意味で社会の標準化と豊かさの反映とも考えられるが、問題はその奥に忍び込みつつある社会心理である。それは、一言でいえば、他人と自分との境界がぼやけてきていることである。
他人と自己との境界の曖昧さは、ロック・コンサートやサッカー試合に熱中する人々の、或る種の群集心理と結びつく。試合を観たり、音楽を聴くことよりも、或る種の感情や感激を他人と共有し、そこに興奮を感じることの方が重要なのだ。これこそ正に、他人と自己との境界が消滅した人々の姿に他ならない
加えて、高度な文明の発達と共に動物と人間の境界も、或る意味でははっきりしなくなってきている。
動物の臓器の人間への移植が行われたり、遺伝子組み換え技術の発達やヒトの遺伝子の解析が完成しつつあることは、人体が、或る種の生物学的実験の道具となってきていることを暗示している。人間は、その意味で動物化されつつある。その一方、ペットブームや、或る種の生物の保護運動は、動物の命を人間並みに扱う風潮を生んでおり、動物の人間化が進行している。「動物の権利とは」といった本が書かれ、狂牛病や口蹄疫などに罹った牛が無残に屠殺されていくテレビのシーンを見て、動物にも、或る種の権利と尊厳を認めるべきという主張が現れている。
けれども、こうした境界なき世界が出現すればするほど、逆に、現代社会における目に見えぬ境界の存在の意味に改めて気がつく。
アメリカやフランスのように、異民族のるつぼであり、境界なき世界があちらこちらに存在している社会では、一方で社会階級・肩書・家族の出身・民族・職業・住所といった事柄が重要視され、それぞれの要素によって色々な形の差別化やグループ化が行われている。
考えてみれば、個性の発揮の原点は他人との区別である。その区別の要素は、才能であり、性格であり、出身であり、教育であり、民族であり、職業であり、あるいはそういったものの複雑な総合である場合が多い。言い換えれば、平均値を高めようとして、みんながドングリの背比べのようになる社会を、欧米社会はどこかで本能的に忌避しているように見える。
フランス革命やアメリカ建国の精神たる自由とは、束縛からの自由だけではなく、個人の可能性が、個人の責任の範囲において、最大限発揮されることも意味しているのではないだろうか。他人と違うということは良いことであり、そこから個人の自由と個性の発揮が始まる、ということなのだろう。
そう考えると、一億の人々が皆中産階級に属しているように思い、また、それが良いことでもあるかのように考えている社会は、自由と民主主義の或る一面だけを見すぎており、他の面を軽視していると言える。
何百万の発行部数をもつ新聞や、平均的な社会人に最もアピールする番組ばかり作っている(言い換えれば、視聴率第一主義の)テレビなどは、こうした傾向を知らず知らずのうちに助長しているのではないか。
特定の人々だけのための教育、特定の人々だけのための新聞や雑誌、特定の主張のみで生き残ろうとする政党、そして自分は違うのだという意識を誇りに思う人々の存在……そういったことを、あるいは反動的とか、あるいは強者の論理であると言って切り捨てようとする風潮こそが、実は自由と民主主義を後退させ、創造性ある社会の建設を阻害していないであろうか。ヒットラーを生んだのは保守反動思想でもなければ軍国主義でもない、民主と自由の本当の意味を履き違えた大衆民主主義であった……或るフランス人がそう言っていたことが思い出される。境界なき世界の中でこそ、境界をはっきりと作ることもまた、重要なのではあるまいか。
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PDF 境界なき世界と個性的生き方 [243 KB]
