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「引き際」を「科学」する

富士通総研研究顧問(慶應義塾大学教授)林 紘一郎

2004年1月

要旨

引き際の「美学」

このところ有名人の引き際が話題になっている。プロ野球では原(巨人)星野(阪神)両監督、高級官僚では藤井総裁(道路公団)、政界では中曽根・宮沢両元首相や野中元幹事長といった大物など。例年は大物会長・社長の引退が話題になることが多いのに、今年の主役は経済界以外が多い。

これらの人々の出処進退は、大きく分けると2派になる。1つは、引き際をいわば「運命」と受け取り、淡々とこれに従うタイプ。もう1つは「引く」ことを求める外部の声に耳を貸さず、「続投」という自説を貫こうとするタイプである。そしてわが国の風土は、前者に好意的で後者には冷たいように思われる。前者が「後進に道を譲る」「潔い決断」と賞賛されることが多いのに対して、後者は「地位に恋々とする」「晩節を汚す」として非難されることが多い。前者を「責任を放棄する」「独り善がりの目立ちたがり」と批判し、後者を「初志を貫徹する」「独立心ある行動」と讃えることは稀である。

わが国には古くからの伝統として「引き際の美学」があり、責任を感じた者が反省して出直すよりも、退任(あるいは極端な場合は切腹)することが「美しい」とされてきた。しかし、今回の一連の事件で対応が2派に割れたことからも分かるように、どうやら「美学」だけでは解けない事態が、起きているのではなかろうか。この小論では、客観性を問うことが難しい「美学」に代わって、「科学」によって説明することを試みよう。そのためには、暗黙の前提とされてきた5つの仮説を再吟味し、帰無仮説であることを証明する必要がある。

仮説1:自分の引退は自分で決められる

まず美学であるとする大前提は、「自分の出処進退は自分で決めるべきだし、決められる」という仮説であろう。引き際が問題になるような人は、いわゆる「功成り名遂げた」人であり、その判断能力は実績で証明されているし、現在もそのレベルを維持している、という訳である。

しかし、これが虚構であることは、本人以外は先刻ご存知なのではなかろうか。客観的に見れば、何らかの問題が発生しているからこそ進退が問われている訳であり、仮に過去に有能であったことは認めるにしても、現在もなお有能であることは証明されていないからである。責任とその能力の有る無しは、当事者が決めるのではなく、第三者の判断に委ねるべきだろう。

これこそコーポレート・ガバナンスの第1条であるが、かつては日本企業にはその仕組みとノウハウが欠けていた。チェック機能を果たすべき監査役は、ほとんどが社内からの登用で、社長にはたてつけない。外部監査法人も長期契約を前提にしている以上、眼が曇りがちである。メインバンクがその役割を代行していたとの見方もあるが、これまた「持ちつ持たれつ」の資本関係にあっては真の第三者とは言いがたい。

当の銀行が破綻し、新しいガバナンスが求められるようになってから、日本企業も様変わりしつつある。外部人材の登用、取締役会の機能変化、外部監査の強化など、ビジネスの分野ではやっと世界標準に近づきつつあるかに見えるが、それ以外の分野では、客観評価はまだまだである。特に公的セクターでは「第三者の判断に委ねる」ということ自体がタブー視されている。しかし、道路公団総裁の首を切るにも聴聞をしなければならないという、とんでもない「身分過保護」の世界だからこそ、「客観評価」は不可欠であろう。公務員試験という、1回限りの試験で偶然好成績を収めただけで、一生優遇されるべき理由はない。

同じことは政界にも言える。政治家の場合は選挙によって資質が試されるのだから、定期的に客観評価を受けているという主張は、一見するともっともである。しかし二世(三世)議員の比率が年々向上しているということは、選挙が正しい客観評価であるか否かを疑わせるに足る。

考えてみれば、酔っ払い運転の被疑者の大部分は「私は酔っていない」と言うが、アルコール濃度検出計によって、いとも簡単に事実が判明する。これと同じように「自分の進退は自分が決めるし、自分にはその能力がある」と主張する人に対しては、検出計に相当する客観評価を求めるのは、当然のことではないだろうか。

仮説2:引退後は「タダの人」になる

引退を嫌がる背景には、引退するとそれまで維持してきた金と名誉が一挙に失われる、という恐怖感があるようだ。確かに私の乏しい経験から見ても、大企業の準役員から大学教授になった途端に給与が半分近くに減ったり、かつての会社をたまに訪問しても顔見知りが少なくなったりして、失意を感じるのは分からぬでもない。

しかし一生のうち、一つの組織としか付き合わないのは、そもそも不幸としか言いようがなく、組織に見放されたと考えることもまた、あまりに狭い見方と言うべきであろう。終身雇用と年功序列は「追いつき追い越せ」時代の日本には有効であったかも知れないが、ゼロ・サムに近く成熟した国際市場での激しい企業競争の面からは、足枷以外の何物でもない。

企業から見れば労働者も調達すべき資源の一要素に過ぎないし、より効率的な調達方法を求めていくのは当然である。労働者の側も、資本の論理を良く見極め、できるだけ自己に有利な条件を求めて、市場の中を探索していくことこそ必要であろう。ここには、一つの組織に一生しがみつくという論理の入り込む余地はない。

このような考えは、ビジネスの世界から浸透しつつある。Happy Retirementという、これまでになかった考えが賛同を得つつあるし、NPO法人などを見ると嬉々として活動している高齢者を多数見かける。ここでは、会社で部長だったか平社員であったかなどは全く問題ではなく、今目の前にある活動要請にどれだけ応えられるかが、評価を得る基準である。

考えてみれば、組織で出世した人が偉い、というのは明治以来の刷り込みに過ぎない。ましてやその職位に、何らかの特権が結びついているなど、言語道断である。政界では「サルは木から落ちてもサルだが、国会議員は選挙に落ちればタダの人」という諺があるそうだが、これは二重の意味で誤りである。まず国会議員≠タダの人という特権意識(それが生まれるには実利もついているのであろうが)と、次にタダの人を蔑視しているという差別意識において。

仮説3:年寄りには知恵があり、若者は年寄りの首を切るべきでない

育児ノイローゼで子供を虐待するなどの事故の際に、昔の「おばあさんの知恵」が欠けている、という指摘が多い。確かに、ノウハウをマニュアル化しにくい世界では、年寄りの知恵が必要とされることが多い。しかしこの点を強調しすぎることも、また誤りであろう。

同じことを組織で考えてみると、費用(支払う給与など)対効果(その当人がもたらす収益)がもっとも高いのは、入社数年から十数年程度の脂ののった社員層であろう。新入社員は戦力として十分でないし、管理職はマネージメントの方は磨かれていくかもしれないが、直接収益には寄与しなくなっていく。

これに対して従来日本の企業は、終身雇用を前提にした年功序列賃金を採用していたから、費用対効果でみると、新入社員と年長の管理職については会社の持ち出し、中堅社員(含管理職)については社員の持ち出しという状態であった。しかし生涯賃金や年金の予測可能性が高かったので、両者とも丸く収まっていたと考えられる。

しかしもはや高度成長は見込めず、少子化によって年金もままならないとすれば、どの年齢層をとっても費用対効果を同一にする、つまりその時点の会社への寄与度に応じた賃金体系に変更せざるを得なくなる。年俸制の導入や、中高年がリストラの対象にされるのは、このような状況ではやむを得ないことである。

ところがこの激変から逃れた唯一の層が、激変前にトップ層に上り詰めた人々である。彼らは旧来の評価法では優秀であったが、新時代の評価基準で通用するかどうかは、試されていない。このような状況の中で、新しいリーダーが引退を要請したとすれば、原則的には潔く身を引くべきではなかろうか。

藤井道路公団総裁対石原国交相のバトル(?)の過程で「あんな若造に首を切られてたまるか」とか「官僚が政治家の意のままにされては構わない」という意見(あるいは憤慨)を耳にするが、両方とも根本的に間違っている。老人の知恵は大切だが、それは地位と連動するものではないし、高級官僚の任命が「政治任命」(political appointee)でない方が、むしろ問題だからである。

仮説4:無収入・肩書きなしでは尊敬されない

仮説1~3は、結局のところ「無収入・肩書きなしでは尊敬されない」という仮説に収斂するのかも知れない。資本主義社会の基本的単位は金銭価値であるから、「収入が多い人は肩書きも上」という相関関係がある。それでは社会に貢献していると認められる最低条件は、収入が多く多額の税金を払っていることであろうか?

私はこの仮説を頭越しに否定する人々に与することはできない。例えば道路公団のみならず、郵政公社にせよNHKにせよ、法人税を払っていない組織がさも公共の福祉に寄与しているかの如き顔をしているのを、許せない気持ちである。しかし、これらの人々にもっと税金のことを真剣に考えてもらいたいと思う一方で、税金を払うどころか年金を「お上」からもらっている人々には、国政への発言権もないのだと主張する人々がいれば(このように明言する人々は少ないが、腹の中でそう思っている人は一杯いそうである)、その主張に与することもできない。

思うに社会的貢献には種々のパターンがあり、金銭的貢献だけが全てではない。金銭的な面に限れば仮説3のような状況になるが、非金銭的貢献なら高齢者の方が貢献度が高いことは容易に想像できる。なにしろこの世代は「時間」という資産を持っている(今のところは金銭的資産も併せ持っている)からである。

そこでかつて流行した「老人力」を生かしてもらうため、社会的仕組み作りが必要になる。その大本は、老人に賞金を出すことではなく、名誉を感じてもらうことだろう。勲章も一方法かもしれないが、「お上」がやることには限界もある。民間ベースの「○○賞」や「△△名人」といった、ノウハウや技術、それらを生かした社会的活動を顕彰する制度が有効と思われる。

タテ社会からヨコ社会へ

以上を通じて、引き際が美学の対象である以上に、科学の対象であることが納得いただけたろうか。これを社会構造に対応されてみれば、美学のみであり得たのは日本が「タテ社会」(中根千枝氏の1960年代の命名)であったからであり、「ヨコ社会」に転じつつある現代では、主として科学で説明できるし、また科学的に実践すべきではなかろうか。

そして、わが国の「ヨコ社会」が「少子高齢社会」であるとするならば、世代間の対立を避けるためにも、老人力を積極的に活用する新しい仕組みが求められている、と言わなければならない。それが欠けていれば「科学的に引く」こともまた、逡巡せざるを得ないからである。

全文はPDFファイルをご参照ください。

PDF 「引き際」を「科学」する [329 KB]