富士通総研

市場は進化する

横浜国立大学教授・前副学長 若杉 隆平

2004年1月

要旨

中国に「国家行政学院」という公務員養成機関がある。この学院は、中国の改革開放路線を実務面から担う上級・中級の現職公務員を対象として、経済・法律・行政の各分野での知識の習得や研修を行う教育組織である。いわば市場経済化の担い手となる行政官を育てる組織である。中国共産党の肝いりで10年前に設立され、北京郊外に優雅なたたずまいの施設を有しているという。この学院は日本に学ぶことを目的として、毎年、幹部候補生である公務員を日本に送りこんでいる。今年(2003年)で6年になり、その数は200名にも達している。この研修プログラムを日本側で支えているのが富士通グループである。学院生の日本での教育研修を支えるために、民間企業であるにもかかわらず、さまざまな施設やサービスを提供し、多くの支援と努力を長い間惜しみなく与えてこられたことに深く敬意を表したいと思う。

この研修プログラムの主催者からの依頼を受けて、この間、私も講義の1コマを担当してきた。講義の内容は「日本の産業政策」と題して、日本における市場と政府の関係が戦後今日に至るまでの間、どのように変化してきたかをじっくりと考えてもらおうという趣旨のものである。講義は一方通行のものでなく、なるだけ多くの質問を提起してもらい、それに答える形で進めることにした。教えることは学ぶことである。おかげで私自身にとっても学ぶところが少なくなかったが、とりわけ、この6年の間で中国の幹部職員の日本への関心の持ち方が大きく変わってきたことに驚かされた。中国の市場経済化が短期間に急激に進行していることを如実に反映していると受け止めている。

最初に派遣された公務員の多くは、日本の戦後から1960年代までの政府の市場経済への関与に高い関心を示した。日本の高度経済成長期における設備投資の促進、輸出の拡大、産業構造の変化に関して、政府が民間セクターにどのように関与し、その結果がどのように現れ、どのように評価されるのかを学び取ろうとする意識が強く感じ取れた。高度経済成長期における政策効果を肯定的に捉え、日本の「政策の成功」から中国の経済発展に役立ちそうなことを学び取りたいという意欲が現れていた。

2001年の中国のWTOへの加盟は現場の公務員に大変な影響を与えた。国際貿易における無差別原則と内国民待遇の原則に中国の国内制度をどのように調和させるかが待ったなしの課題である中国にとって、日本の貿易自由化、政府の市場への関与の縮減と市場メカニズムを一層重視した政策への転換がどのように進められたかにもっぱら関心が寄せられた。計画経済に相通ずるような高度経済成長期の官民協調政策から関心は薄れてきたと感じた。

ここ1 - 2年の研修生からは、高い経済成長を実現する自国経済の成功を意識して強い自信が伺える。と同時に、貿易黒字、ハイテク産業の伸長、先進国間の貿易摩擦を経験した日本と同じ問題に早晩中国も直面することを予測している。彼らは、日本の成功から停滞へのプロセス、そこでの政府と市場の関わりに大きな関心を寄せ、過去10年余にわたる日本経済から「失敗の教訓」を学び取ろうとしている。

日本が時間をかけて経験してきた政府と市場との関わり合いとその変化を、中国は短期間で経験することになる。大国中国が永きにわたる計画経済から一気に市場経済に移行することは、そうたやすいことでないことは研修生自身が一番よく分かっているであろう。それ故に市場と政府のあり方を日本から学び取ろうとする熱心な姿勢はよく理解できる。

言うまでもなく市場は経済活動の基本的な場である。この場が十分に機能するにはそこに参加する人々が共有するルールが必要不可欠である。合理的でないもの、非効率を生み出すもの、不公正なものはルールによって排除されなければならない。ルールの多くは最終的には法律によって定められることが多い。商法、証券取引法、独占禁止法、その他様々な法規がある。このルールは、市場参加者が恣意的に変えることができないという意味で所与である。しかし、ルールは我々自身が作り出すものであり、絶えず変化するという側面を有している。例えば知的財産法の一つである特許法を例にあげよう。特許法は特許権者に独占的な権利を付与する。これによって特許権者は収益を確保することができる。仮に、権利保護期間を延長すれば権利保有者の独占権を強め、多かれ少なかれ利益をもたらす。その結果、特許の獲得、すなわち、発明に力を入れようとするインセンティブを高めることになる。他方で、特許を用いて生産・供給される財を消費する者にとっては、新しい財・サービスを入手する可能性が高まるかも知れないが、高い価格を支払うことになる。この場合、どこを基準にルールが設けられるべきかという問題が発生する。特許権者の利益か、消費者の利益か、経済全体の利益かは、ルールの設定でいかようにでも変化する。したがって、市場経済への信頼は、そのルールをいかに決めるかによって大きく左右される。良い市場ルールを設定するために、耐えざる努力を行うことが市場経済にとって不可欠であるゆえんである。

再び中国からの研修生への講義に戻ると、市場経済に対する信頼を強調すると決まって受講者から質問が出る。「市場経済は予測がつかない。余りにも多くの変化が生じ、混乱する。ひどい目に遭う人は少なくない」と。これに対して私は「市場経済は確かにひどい。しかし他の経済システムはもっとひどい。市場を作るのは人間の知恵であり、その知恵いかんで市場は進化する。より良い市場を作る努力こそが大切なのでは…」と答えることにしている。

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