漱石とCOE
国際日本文化研究センター教授 猪木 武徳
2003年7月
要旨
大学を離れて1年以上になる。異動した先は、文科省直轄の全国共同利用の研究所である。総合研究大学院大学の学生として博士後期課程の大学院生が在籍しているが、学部学生がいないこともあり、27年ほど勤務した前の職場とは雰囲気が全く異なる。山の麓に立地しており、ヨーロッパの修道院と監獄を足し合わせたようなコンセプトの建物で、研究には集中できるよう配慮されている。
しかし現実はそう甘くないようだ。国立共同利用研究所の法人化の中で、事務部の仕事量が急増したことは言うまでもないが、小さな所帯の研究所の教官1人当たりの委員会負担も結構多い。世の中はいいことばかりではないこと、いかなる組織でもガヴァナンスのためにメンバーが払うべきコストがあることを筆者も十分自覚している。ただ論文を書いていればよい、といった単純な主張もあるが、それはあまりにも公共精神に欠ける子どもっぽい発想であろう。やはり現在の研究所や大学は改革を迫られており、そのためのリーダーシップが求められているのである。
現在の大学が抱える問題点のいくつかを、昨年『学士会会報』(2002 - I、No.834)に書いたことがある。その内容をここでは繰り返さないが、その後の大学改革の動きの中で気のついたことを1つ記しておきたい。
それは既に動き出したCOE(Center of Excellence)、すなわち「卓越せる研究拠点」の形成という発想である。従来の大学への基本的な研究費の配分には、確かに「悪平等」の傾向があった。それに対処するための「COE形成」という政策は、配分にもっと極端な差をつけ、よい業績をあげているところへは5年間で例えば総額10億円近いオーダーの研究費を投入するという方式である。優れた業績をあげている大学の研究者集団に、更に潤沢な研究費を与えるというのは、競争原理を強め研究を更に活性化させるという点で、望ましい動きであることは確かである。
しかしその進め方の細部には疑問を感じざるを得ない。研究業績のある研究者の地域的分布は均一ではないどころか、大きな歪みがある。2、3の有名大学にかなり集中していることは疑いない。特に過去10年ほどの間で進んだ「大学院重点化」の動きの中で、定員充足に多くの大学が励んだため、空きポストのあった有力大学が多くの人材を引き抜いたのである。母校から呼ばれれば戻るということもあっただろうし、有名大学へ二つ返事で移るという動きも個人レベルの行動としてはもちろん理解できる。ところが現実には、人材の分布にかなりの地域的偏りが生じた。そこへCOE方式が導入されると、勝負は自ずと明らかになる。力ある集団に更に格差を広げるような資金援助をし、研究費の不十分研究者グループは活力を失いかねないような状況に追い込まれる。このコントラストはあまりに強い。
それが競争というものであり、それを受け入れないと、いつまでたっても日本の社会科学のレベル・アップは期待できない、というのは正論ではある。しかしこれはあくまで「短期の競争原理」に基づく正当化にすぎない。確かに優秀な仕事をしたグループに手厚く報いるというのは必要なことであるが、長期的にはこの原理だけで研究の公正な競争条件は確保できないのではなかろうか。COEに選ばれなかった研究グループが、リターン・マッチとして再び競争に参加することは長期的に見るときわめて難しくなるからだ。
こうした状況は、夏目漱石が、地球物理学の木村栄博士の功績を学士会院が表彰した時に書いた「学者と名誉」という文章を想起させる。漱石は純粋の科学者・木村博士の仕事に社会の注目が集まったことを祝したあと、次のように言う。
「彼等(一般の社会=猪木注)が今まで所有していた公平の無感覚は、俄然として不公平な感覚と変性しなければならない。・・・木村氏と他の学者とを合せて、一様に坑中に葬り去った一ヶ月前の無知なる公平は、全然破れて仕舞った譯になる。一旦木村博士を賞揚するならば、木村博士の功績に応じて、他の学者も亦適当の名誉を荷ふのが正当であるのに、・・・木村氏の功績を表するがために、他の学者に屈辱を與えたと同じことに帰着する。」
(明治四四.七.一四『東京朝日新聞』)
漱石の論旨は明快であるが、もちろんこの論が現代社会にそのまま通用する訳ではない。現代では多くの賞が存在し、その賞自体の信頼度に関しても、社会一般の評価が形成されている。ノーベル賞受賞者といえども、その受賞者が聖人君子やスーパーマンではないことを一般の社会は知っている。立派な学者もいれば、とんでもない俗物もいるだろう。したがって賞を受けた人と受けていない人は、漱石の言う「衆目の前に獨り偉人に見える」者と「暗黒なる平面に取り残され」た人というわけではない。
しかし、その仕事を評価された(大学単位の)グループのみが巨額の研究費を獲得し、それに入らない人々との間に大きな格差をつけるという政策はいかなるものか。巨大な額の実験設備を必要とするような研究分野ならいざ知らず、少なくとも人文社会科学系の分野で、毎年億単位の金を必要とするような研究グループとは、どのような研究をしている集団なのだろうか。
そしてある研究グループを「衆目の前に獨り偉大」に見せ、残りのグループを「暗黒なる平面に取り残す」という発想について、どれほど説得的な議論がなされたのだろうか。良い研究にはそれ相互の「はげみ」となる評価が与えられるのは当然のことである。差があって当たり前であるが、問題はその差の大きさなのである。競争で勝ったグループに巨額の賞を出し、それ以外のグループは置き去りにするというやり方は、少し短期的かつ単純にすぎないだろうか。
全文はPDFファイルをご参照ください。
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