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著作権の「システム間競争」時代

富士通総研研究顧問 (慶應義塾大学教授)林 紘一郎

2003年1月

要旨

はじめに

私は丁度2年前の本誌(2001年1月号)に「著作権法は禁酒法と同じ運命をたどるか?」と題する、いささかプロボカティブな論稿を発表した。当時はまさに、音楽をインターネットで配信する行為をめぐって、著作権法という既存の制度を盾に「違法コピー」の蔓延を心配する意見と、仲間うちでの情報財のやりとりは「私的使用」で自由なはずだという意見とが、対立の渦中にあった。

Real NetworksのCEOであるロブ・グレーザーは、この争いを1920年代の「禁酒法」になぞらえ、「認可を受けた正規のバーの数が少なく、酒を飲むのに苦労しなければならないとすれば、手軽な密売屋から酒を買う人が増えるのは当然だ。著作権者の保護にのみ重点をおけば、禁酒法と同じくやがて廃れるに違いない」と述べていた。

私は、グレーザーが言う「違法状態を是正するには取り締まりを強加するだけではなく、望みの品が容易に手に入るようにしなければならない」という点に共感を覚えた。その対策として私が提示したのは、更に約2年前(1999年春)から提唱している○dマークであった。これは現行制度を前提にしつつも、ネット上の著作物については、アナログを基礎にした制度とは別の扱いをしようというもので、それなりの意義はあったかと考える。しかし当時の私の考察は、未だ十分な高みに達していなかったので、著作権制度の将来像がどのような形になるかまでは、予見できないでいた。

その後の2年間で、上記の対立は解消に向かったかというと全く逆で、アメリカでは現状の権利保護期間(自然人の著作物については、著作者の存命中と死後50年。法人の著作物については公表後75年)を夫々20年間延長する「1998年権利期間延長法」(俗称ミッキー・マウス法)が憲法裁判になり、賛否両論の激しい論議が戦わされていて、調停不可能な状態にある。そこで私の見方もまだまだ洗練されていないと知りつつ、この難題に対処するための俯瞰図を提供してみよう。

有形財の保護と無形財への応用

著作権が保護しているのは、「著作物」すなわち「思想または感情を創作的に表現したもの」(著作権法2条)であって、体化(法律用語では「化体」)とりわけ固定はごく限られた著作物について要件とされているだけで、一般的な要件ではない。例えば即興演奏のように瞬時に消え去るものでも、創作性があれば音楽の著作物としての保護が及ぶ。しかも一般には誤解され易いが、固定された「モノ」の「所有権」と、そこに体化されている「情報財」の「著作権」とは別である。例えば私が、さる高名な画家の絵を購入したとしても、契約前に著作権のうち出版権が既に第三者に譲渡されていれば、私が自分で絵を鑑賞したり他人に見せることは自由だが、自分で出版することはできない。

一般に無体物に権利を付与しようとすれば、それを他と区別する必要があるから、体化と固定は、保護を受けやすくする手段として有効である。前述の即興演奏のケースでは、いかに権利があっても、それを裁判で証明しようとすれば、とてつもない困難に遭遇するであろう。したがって、現在の法体系が有体物を中心に構成されているのも不思議ではない。民法85条において「本法において物とは有体物をいう」とあるのが象徴的である。

そしてそれには、法的にも十分な理由がある。「有形財」の場合には、「自己のためにする目的をもって物を所持する」ことが可能で、法的にはこの「占有」を前提に、権利者の排他権を認めたものが「所有権」であり、これを(第三者を含む)社会一般に担保する仕組みが、登記や引き渡しなどの「対抗要件」である。ところが「情報財」は、本人でさえ触って確認することができない実体のないものだから、他人の使用を排除することはきわめて難しい。また誰かに「情報財」を引き渡したつもりでも、私の手元には同じものが残っている。つまり法的には「占有」状態が不明確だし、明確な移転も起こらないのである。

もっとも、「情報の保護」と真正面から銘打たなくても実行上これに近い効果を与えてくれる規定は存在する。例えば民法の「不法行為」においては「他人の身体、自由又は名誉を害したる場合」に「財産以外の損害に対しても」損害賠償の責任を課している(民法710条)から、名誉など「非財産的損害」も保護されていることになる。

しかし不法行為によって事後的に救護される場合(一般不法行為規制、アメリカ法ではLiability Rule)よりも、事前に排他権が与えられていて他人の利用や妨害を排除できる場合(権利付与法制 Property Rule)の方が保護の程度が強いことは明らかである。知的財産制度はこの後者の代表例といえる。この中間に、保護されるべき利益を害する行為を特別に禁止する方法(特定行為規制、例えば不正競争防止法)があるが、この三者を比較して見ると、権利付与>特定行為規制>一般不法行為規制 と権利の強弱が異なることが分かる。

著作権制度の暗黙の前提とデジタル化の影響

近代著作権制度は、[1]「著作物」という言葉に表されるように創作の結果は「モノ」に体化される、[2]複製にはコストや時間がかかり品質は必らず劣化する、[3]伝送による複製は品質の劣化で不可能か、極度に高く付いたり時間がかかりすぎる、という暗黙の前提の上に成り立っていた。ところがデジタル技術においては、[1]創作物を「モノ」に体化させずデジタル的素材のまま交換することができ、[2]複製することは瞬時にほぼ無料ででき、かつ品質も劣化せず、[3]これを伝送しても条件は同じ、[4]1つの素材から幾つもの違ったメディアに複製することができる、ということになってしまう。

しかし創作物の種類によって、その度合いに差があることにも留意しておこう。先の3つの困難性のうち「伝送」は、「体化」または「固定」のそれと連動する面が強いので、今後の制度設計にあたっては、体化の困難度と複製の困難度を両軸に、著作権の対象になる創作物を分類してみることが有効であろう(図表1)。

この表の原点に近い「体化困難・複製困難」の代表が、かつての出版や、古くからある彫刻である。この対局にあるのが、「デジタル財」とでも呼ぶべきもので、「体化も複製も容易」であることから、従来の著作権の概念だけでは律せられない問題を提起している。

その両者の間に「体化は容易だが複製が困難」な例として、実演(パフォーマンス)などがある。かつて実演は体化するのも困難であったが、デジタル録画装置などの発達によって、体化そのものは容易になった。しかし、そのような方法で体化されたものが、実演そのものと同等の価値を伝えているかとなると、いささか疑問である。ベンヤミンのいう「アウラ」が伝わらないからである。同様の意味で、絵画にも本物と複製の差がありそうである。もう1つの中間的存在は、「体化は困難だが複製は容易」のパターンで、CG(Computer Graphics)が代表例である。CGの作業は、コンピュータへの入力に時間、労力と創造力が必要だが、一旦制作されたものを複製するのは、いとも簡単である。したがって著作権侵害にもっとも弱いメディアと考えられる。

このような状況の下では、従来通り著作者や著作権者の権利を守ることは、極めて難しい。問題がいち早く顕在化した音楽の分野では、デビット・ボウイが自分自身を証券化して売り出し、保有者にライブ・チケットを優先的に割り当てることで価格を上げ、逸失利益の回収を図っている。ディジタル・マルチメディアの環境の下では、1つの出力フォーマットを著作権で守ることに腐心するより、若干の違法コピーには目をつぶり、そこで得たポピュラリティを利用して他のメディアで稼ぐことを工夫した方が賢い。つまりワン・ソース・マルチ・ユースの発想でいくべきである。

近未来の著作権制度

近未来における著作権制度について即断はできないが、4つの大きなトレンドは変らないと思われる。

第1に、複数のサブ・システムが併存することにならざるを得まい。現在の著作権制度は印刷技術以降の複製技術の登場を、すべて1つの制度の中に取り込んできたところに特徴がある。またその権利処理についても、複製権を中心としつつも、各種の細分された権利(支分権)を活用することによって、複雑な制度をなんとか維持してきた。しかしデジタル技術の登場は、これらの「要素還元主義」を無意味にしてしまう。と同時に権利者の側も、必ずしも一枚岩ではない。ソフトウェアの世界では、一方でマイクロソフトに代表される「権利死守型」と、他方でフリー・ソフトウェアやシェアウェアを通じて「コモンズ」を目指す人々がいる。この中で、唯一絶対の法的システムを維持することは不可能に近く、一枚岩のシステムはいくつかのサブ・システムに分解して行かざるを得ないだろう。

第2点として、権利存続期間の弾力化がキーになると思われる。著作権制度の導入当初は、権利の存続期間は10年強でさほど長いものではなかったが、法改正のたびに延長されている。これは平均寿命が延び、ドッグ・イヤーで社会が変化する状況とは逆行するものであると同時に、それによって著作(権)者の利益が最大になるとは限らないという矛盾を抱えている(浜屋・林・中泉「著作権の経済学的分析に関する理論的枠組み」研究レポート133号参照)。今後は権利存続期間を、弾力的に運用する仕組みが必要になろう。

その際に第3点として、分散処理型の緩やかな登録制度が関連を持ってくる。著作権は登録を要する特許と違い、何らの手続きを経ないで権利が発生する点(無方式主義)に特徴があるが、これは権利関係を曖昧にする欠陥がある。インターネットが通信の主たる手段になり、それを介して著作物が無形財のまま交換されるような事態を想定すれば、権利の確定のためにはどこかのサーバに著作物を「仮留め」(現行著作権法が想定するような「固定」ではないが、やや緩やかな形での「体化」とでも言おうか)することが便利である。この際、権利関係の表示を併せて行なえば、それが即分散型の著作権登録制度(ECMS=Electronic Copyright Management System)の原型になるだろう。

そして最後に第4点として、著作者人格権が見直されるだろうと予測しておこう。アメリカ法ではごく限られた範囲でしか人格権を認めていないが、表現行為の成果としての著作権が重視される度合いが高まれば、人格権の方こそ重要だということになろう。例えば著作物が勝手に複製されても、氏名表示権さえ守られていれば、それがパブリシティ的効果を発揮するからである。

いくつかの試み

○dマークという私案は、[1]ウェブ上の公表という分散型の緩やかな登録システムであり、[2]権利存続期間を最長15年までの4パターンに制限する、[3]氏名表示権を重視する、という点に特徴がある。これは、将来の著作者へのインセンティブの付与(何らかの見返りなしでは、人はあまり生産しない)と情報の公的な特質(より普及され、分かち合われた情報こそ価値が高まる)のバランスをもたらそうとするものである。

○dマークに類似のものとして、既にいくつかの提案がある。それらは、ECMSという点では似かよっているが、[1]報酬志向(I=Incentive型)か、コモンズあるいはパブリック・ドメイン志向(P=Public Domain型)か、[2]集中処理型(C=Centralized)か、分散処理型(D=Distributed)か、という2つの軸で分類可能である(図表2)。

個々の例をあげれば :

[1] Ted Nelsonの“Transcopyright"は、基本的にI=D型。
<http://www.sfc.keio.ac.jp/~ted/transcopyright/transcopy.html>

[2] 森亮一教授の“Super-distribution"は、典型的なI=D型。
<http://sda.k.tsukuba-tech.ac.jp/SdA/>

[3] 北川善太郎教授の“Copymart"は、コンピュータによる現行著作権の保護、つまりI型でしかもC型。
<http://www.copymart.gr.jp/>

[4] Free Software FoundationのGPL(General Public License)は、私に○dマークについての幾つかのアイディアを与えてくれたが、基本的にP=D型である。
<http://www.gnu.org/licenses/licenses.html>

[5] Harvard Law SchoolのBerkman Centerが提案したccマークは、同じくP=D型である。
<http://cyber.law.harvard.edu/cc/cc.html>

ただし、その発展型としてLawrence Lessigたちが始めたcreativecommonsというプロジェクトは、私のアイディアに近いばかりか、更にそれを実現するソフトウェアも実装しようという意欲的な試みで、その将来性が注目される。
<http://www.creativecommons.org>

[6] 私の○dマークは、D型ではあるが、I=D型にもP=D型にも使える点に特徴がある。
<http://www.glocom.ac.jp/users/hayashi/papers.e.html>

[7] またContent ID Forum(cIDF)は、D型で、I=D型にもP=D型にも使える普遍的なシステムを目指したものである。
<http://www.cidf.org>

暫くはこれらの提案が「システム間競争」を繰り広げつつ、併存していくであろう。しかし大勢としては、当初「印刷業者の特権」であったものが、市民革命を経て「創作者の人格権の発露」と考えられ、やがて経済の成熟とともに「創作者へのインセンティブの付与」と捉え直されていったという歴史は逆転するまい。その延長線上には「情報の円滑な流通論」があり、○dマークはその流れに沿っていると考えている。

結 語

従来の制度は「デジタル化」と「ネットワーク化」によって大きく揺らいでおり、強度の地震に対して建築学でやるように、剛構造ではなく柔構造で対応すべきではないか、というのが私の主張である。柔構造にしないと、著作権制度そのものが全壊してしまうので、せめて全壊しないためには柔構造にした方がよい。だが、生き延びるのは全部ではない。これまでは、制度はこれしかないと法律が決めていたが、そろそろ市場主義を導入し、制度(システム)間競争をする時代ではなかろうか。

いろいろな法律がすべて、有体物中心の法体系から無体財を相当取り込んだ法体系に、少しずつ変らざるを得ないとすれば、今は大システム間競争をしていると言えるのではなかろうか。私はかつてAT&Tと独立系の電話システムが、19世紀最後の10年あるいは20世紀初頭の10~15年の間に、どのようなシステム間競争をしたかについて、かなり注意深く調べる機会があった。ほぼ同じ時期に電力ビジネスにおいても、交流と直流のシステム間競争があり、優劣は直ぐには分からなかった。それが大システム間競争の末、あるところに落ち着いた。ひょっとすると著作権についても、大システム間競争をすることになり、そうした競争を経て統合システムができればそれで良し、あるいはサブ・システムが幾つか生き残り、それらが互換性を持っていればそれも良し、というように柔らかな発想で考えるべき時期だろう。

(注)本稿では紙幅の関係から、○dマーク等は既知のものとして論じている。未だご承知でない方は、次のURLを参照いただきたい。

http://www.fri.fujitsu.com/open_knlg/review/rev051/review01.html
http://www.fri.fujitsu.com/open_knlg/reports/133.html
http://www.glocom.ac.jp/users/hayashi/991018.pdf
http://www.glocom.org/debates/200204_hayashi_proposal/index.html
http://www.mediacom.keio.ac.jp/staff/hayashi.html

全文はPDFファイルをご参照ください。

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