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これからの人材育成と日本経済

国際日本文化研究センター教授 猪木 武徳

2002年7月

要旨

制度やシステムが変化することと同様、その中に組み込まれている人間の教育は極めて重要である。日本の人材育成は、外国と競争する場合に、幾つかの分野に関してまだ圧倒的に弱い部分を抱えている。公共の利益を考えるグループや専門的職業人の育成は少子化時代を迎えている日本がアジアの中における安定的な競争力を保持し得る柱になるだろう。また、教育自体がはらむ質的な問題として、判断力、説得力、交渉力、論争力を養うこともこれからの国際競争で必要である。

21世紀の日本経済がどうなるかというのは、これからの我々自身にかかっている。それをより良くするための箱と、一人ひとりの人間を鍛えるということが2つ揃って、日本の将来に対しより明るい方向が見えてくるであろう。

なぜ人材育成に着目するのか

- 民主制と市場経済の課題

現在の日本経済は、あらゆる政策手段を使ってもなかなか困難な状況から抜け出ることは容易でないような状況である。火急的に今どうすべきかという問題も当然議論されるべきことではあるが、私は中長期的な視点から、少し時間のかかる問題に対してどういうふうに将来の日本の経済・社会を良くしてゆく手段を考えることができるかについてお話ししたい。

外的な環境が変わり、かつて適切であった制度や規制が、もはや十分に有効に機能していない場合には、そのような制度を捨て去る決断は大事である。一方で、システムあるいは構造を変えると、社会が良い方向に向かってどんどん進み出す単純な関係にあるわけでもないということも知る必要がある。つまり、システムや構造の改革というのは、社会を改善していくための十分条件では決してないということだ。昔チャーチルが言ったように、「民主制というのは最悪のシステムだけれども、我々が過去いろいろ経験したのに比べれば、まだましだ」というような評価付けが、最も妥当なものではないかと思う。

では、システムだけでは、なぜ不十分なのか。それは明らかに中に詰める人間、つまり我々がどういうふうな価値観を持ち、どう行動するかということに、かなりの部分で依存しているからである。良いシステムを持っていても、人間は悪知恵でアウトスマートすることによって規則の裏をかいて行動しがちである。したがって、システムの変更に対する考慮も必要だが、そこに詰め込まれた人間がどう行動するか、どういう人材なのかということが、やはりかなり重要だろう。人材をどう育てるか、選別するかということは、経済組織だけではなく、一国という大きなスケールで見た場合でも決定的に重要な要素ではないかと思う。

アテネの民主制の黄金時代、ペリクレスという政治家の下で民主制が発達し、アテネは繁栄を遂げた。しかし、彼の死後はとんでもない混乱と堕落を経験せざるを得なくなった。つまり、支配者であったペリクレスが清廉潔白で度胸があり、勇敢な人物であったということが民主制を支えていたのである。また、ドイツのワイマール共和国という非常に理想的な憲法体制の下で政治家ヒットラーが現れたのも、制度とその制度が生み出した政治的現実のパラドックスのような不思議な関係を示している例であろう。

- 公共の利益を考えるグループが必要

どういう人が現れるか、リーダーとなるかということは非常に大事だという点を、まず強調したい。日本だけの問題ではなく、あらゆる先進資本主義国、高度に発達した産業社会において、現在、各国は二つの問題に直面している。

一つは、その国にとっての全体的な公共的利益を考えるグループが存在するか否か、育っているかどうかという点だ。民主制も市場経済においても、自由に一番の価値を置き各々の人間が自分の利益を求めて活動すると、アダム・スミスの命題のように、社会全体が非常に活気にあふれてより高い経済的な活動水準なり厚生が達成されると考えていた。しかし20世紀に入ってから、全体の公共の利益を考えるグループがない限り、市場における経済活動というゲームも、民主主義という政治の制度も、真っ当なパフォーマンスを示すことができないことに気がついた。

もう一つは、自分の専門に関してはかなりの知識を持っていて競争しているが、専門外のことになると十分な知識を得ることができず、的確な判断を下すことができないという現実だ。

- 専門化集団の役割

この10年、20年の国際競争の変化において、明らかになってきたことは、質と価格で代表されるような製品の市場での評価だけではなく、市場で何が起こっているかに関しての論争力が日本には欠けていることだ。非常に残念な記憶として、80年代の日米構造協議などの場で、日本が自国の立場を十分に説明し反駁できなかったという点に端的に表れている。論争力や説得力のある説明の仕方、説得の技術というものが、これからの国際競争の中でかなりのウエイトを占めてくるだろう。グローバル・スタンダードという議論も、スタンダードを一体どこに置くのかということに関しての、ルールを作成するための競争である。そういう競争に加われる人材が専門家集団の一つの重要な役割で、それがこれから更に重要になるのではないかと感じている。

- 人材育成(量的調整)には時間がかかり、輸入が難しい

人材を育てていくのには非常に時間がかかる。例えば、医者が足りないといっても一人前の医者を教育するのに少なくとも14~15年はかかる。今、あるタイプの専門的技能や技術が足りないといってすぐに供給できるというわけではない。また、適切な表現ではないが、人を簡単に外国から輸入できない。例えば、EUで資本と労働の動きが自由になっても、極めて低熟練でスキルの度合の低い労働者や、芸術家などの非常に専門的な職種の人は国境を越えて割に動くが、普通の中間層として企業等で働いている人が、生活の基盤や環境が変わるようなところに長期的に滞在するのは非常に難しい。したがって、基本的に国内で育て上げ、選抜しなければならない。

専門的職業人の育成の遅れ

一部の専門家層の育成状況に関して、量的・質的に良くはなっているが、諸外国に比べて、日本は非常に遅れてきている。

- 企業内の人材育成(日独米の比較)

日本、ドイツ、アメリカのビジネス・エリートの学歴をはじめとした属性と、企業に入ってからどういうキャリアを積んで育成されたのかを共同研究で調査したが、その結果を一部見てみよう。

企業のビジネス・エリートに関しては、1995年あたりの調査では、アメリカでは大学院卒が6割で、日本の場合は四年制大学卒が8割強である。アメリカには大学院卒が非常に多い。

ドイツは、70年代にブラントの社民政権が高等教育の拡大を急速に行いその時代の4割の人たちが大学卒の資格を取って企業に入っているというベースがまずある。しかし、留意しなければならないことがある。まず、18歳くらいで男子は、兵役ないしは社会奉仕を非常に低い賃金で1年半弱やる義務があることだ。その後大学に入学し、最低10セメスターの単位を5年で履修し25歳くらいで卒業する。また、論文は、日本の修士論文と同等ないしはそれ以上の時間と労力を投入して書かれているため、このドイツの4割というのは修士卒だと考えて良い。ドイツでは70年代以降、大学の進学率がうなぎ登りに上昇しており、日本のビジネス・エリートのこの時点での学歴はドイツに比べても低い。

次に、どの学部を出て、現在やっている仕事は何かを考えた場合、この相関が3ヵ国の中で一番薄いのが残念ながら日本なのである。これまで企業は、入社後に優秀な人材を育て上げるシステムであった。しかし、経験の幅は広くなるが、果たして、このシステムでいいのかどうかという問題を今突きつけられているのである。専門性つまり大学院教育を受けた層が日本が少ないという点は、これから問題になる点だろう。

- 法律職

法曹人口を国際比較してみると日本は2万人、アメリカは50倍の約100万人である。アメリカの人口が日本の倍ということを考慮すると、法曹人口の密度ではアメリカは25倍くらいだ。日本が、法曹容量が低い国だということはこれでお分かりいただけるかと思う。しかし、この数字もそのまま比べるのは危険である。アメリカのバー・イグザミネーションという司法試験は、州ごとにやっており、例えば、ニューヨーク州やカリフォルニア州などビジネスが盛んで人口密度の高い大都市がある州における合格率は、確かに6~7割と低いが、その他の州をみると9割以上のところもある。

日本は、六法全書以外を読むと合格できないくらい、それに特化しなければならない。最近は、ダブル・スクーリングなどで大学の法学部の授業は出ずに専門学校で反射技術的なことを訓練するシステムが発達してしまったため、試験を通るには、大変な集中力と異常なまでの記憶力のみが評価されるようになった。その証拠に、合格率を見ると3%を切る。それも、合格可能性が高いと思っている人しか受けないため、実質的な競争率はもっと厳しい。

そこで、資格をどうするかという問題が浮上する。入り口でギュッと絞って、あとは絞られた人たちだけの競争とするのか、あるいは、アメリカ方式にして、土俵に上がってから競争する方式をとるか、どちらが良いかということだ。

弁理士も非常に少ない。日本で特許関係の紛争が起きても解決に時間がかかる。また、裁判で勝っても賠償額は極端に低い。そうすると、日本企業は、外国企業と特許訴訟をする場合、アメリカでも出願しているのでアメリカで争ったほうがいいと考える。例えば、アメリカにおける損害賠償請求額が70年代後半には4,600万円と日本の20倍くらいだったのに対し、90年代に入ると、200倍くらいの9,200万ドルになっている。

司法容量が小さすぎるために、外国にその供給を仰がなければならなくなったという事態はやはり、早急にとはいかないまでも、解決しなければならない問題である。

- 公務員

エリートの官僚は、いろいろメディアからも叩かれているが、基本的に、非常に優れた人材がその時代が必要とする専門知識を持っていろいろな政策立案に携わってきたという点は否定できない。しかし公務員も、専門知識のレベルにおいて、いかに優秀な人材であっても、入省してからの訓練や専門的トレーニングにおいて、他国の同じ立場なり仕事をしている人と比べると、遅れをとっている。フランスにはシアンスポーで大学レベルの政治行政学を勉強した人が、それを終えてから高級官僚になるための訓練をするエナという大学院大学がある。日本で今、公務員養成のための大学院大学を創り出そうという動きがこれからやっと本格化するが、是非頑張ってほしい。官から政へあるいは官から民へというが、政治家が必ずしも公共的なものに対しての優れた判断力を常に持ちうるとは限らない。政治は、民主主義の下においては、私的利益を単に足し合わせたものに過ぎないか、あるいは、足し合わせる以前の何の粉飾もない地域の利益を代弁しているにすぎない場合がある。

- ジャーナリスト

日本は、ジャーナリストになってからの教育や、なってから一時期、大学院教育を受けるために職場を離れるというシステムがうまく機能していないのが特徴的だ。ジャーナリストのレベルは、欧米、東アジアの幾つかの国に比べて、ちらばりはあるが平均すると低い。優秀な人材を吸い取りながら、そういう教育・訓練のシステムをうまくメディアが開発していないのは、専門性の低さを示しているひとつの断片的な証拠ではないだろうか。

最後に、私が今日強調したかったのは、専門的職業人の育成部分には、外国と競争する場合に、幾つかの分野に関してまだ圧倒的に弱い部分があるということだ。少子化時代を迎えている日本が、人材の育成を考えて初めて、アジアの中において日本が得意な分野で安定的な力を保持し得るような絵になるのではないか。

もうひとつは、教育自体が質的な問題をはらんでいたということだ。マークシートで機械的に篩にかけると、定型的知識を試すというタイプのものが非常に多くなる。これも選抜のコストを考えると仕方がないが、それ以外の、表現力とか、判断力、説得力、交渉力、論争する力とか、そういう正解のないような問題は、これからの国際競争でさらに必要になる。これは語学教育や数学の勉強などを軽視する事を意味するのではない。トレーニングして鍛え上げるような、そして食いついていけるだけの粘り強さを、教育の中にもっと意識的に組み込まなければならないのではないかと考えている。

21世紀の日本経済がどうなるかというのは、これからの我々自身にかかっているということと、それをより良くするための箱と、一人ひとりの人間を鍛えるというのが2つ揃って、日本の将来に対しより明るい方向が見えてくるであろう。

全文はPDFファイルをご参照ください。

PDF これからの人材育成と日本経済 [65.7 KB]