為替動向と日米の経常収支
主任研究員 田澤 陽一
2000年7月
要旨
方向感に乏しい足元の円相場
円高とユーロ安の傾向が目立つ中で開催された4月15日のG7では、前2回の会合の共同声明で盛り込まれた「円高懸念の共有」というフレーズが外された。当初、市場はこれを「先進各国の為替相場安定化へ向けてのコンセンサスは強固なものではない」と解釈した。しかし結局、円高傾向は持続せず、6月14日現在1ドル=107円近辺となっている。円相場に格別の方向感は見られない。この円高圧力一服の背景としては、(1)日本の景気回復力が力強さに欠ける一方、米国では堅調な景気展開が続いていること、(2)米日株式市場が不安定に推移していること、が挙げられよう。
このうち(1)は、「日銀のゼロ金利政策解除は困難」との見方を後押しする一方、FRBの金融引締め予想の持続につながっており、日米金利差拡大の面からドル買いの材料を提供している。また(2)については、米国のハイテク株急落に伴い損失を拡大させた海外投資家が、日本株については利益確定のために売りを出さざるを得ない状況に追い込まれていることに注意すべきである。昨年後半から円買いを支えてきた主因の一つと見られる海外投資家の対日投資意欲に一時的にせよ翳りが見える。
長期的な円高傾向が転換したか否かは予断を許さない
ただし、長期的な円買い圧力については依然として警戒を要する。市場では、(A)購買力平価(PPP)、(B)日米の経常収支不均衡と政治圧力、の二大要因による円高トレンド継続の可能性が根強く意識されているようだ。
PPPの含意は、よく知られているように「円ドルレートは日米のインフレ格差を打ち消すように変化する」というものである。例えば日本のインフレ率が米国を年3%下回っていれば、年3%の円高となる。無論、市場参加者は現実の円相場がいついかなるときもPPPに沿って推移すると考えているわけではない。現行水準の為替レートがPPPに対して割高なのか割安なのかも自明ではない。しかし変動相場制移行後のPPPレートは長期的傾向としては概ね日米のインフレ格差に見合う程度の円高傾向を辿ってきている。また、将来的にも長期にわたって日本のインフレ率が米国を下回り続ける可能性が強いことについては、コンセンサスがあると見られる。現下の日本経済の根強いデフレ懸念は、こうしたコンセンサスを強化する結果となっている。
日本の景気が脆弱であることからくるデフレ圧力が円高予想の理由の一つになっているとすれば、直感的には奇妙にも見える。だが、過去30年弱に及ぶ変動相場制の歴史において、円相場が長期的にはPPPと概ね整合的であった事実は、亡霊のように市場参加者の為替相場観に影を落としているといえよう。
なお、PPPの具体的計算に当たっては、多くの経済学者の間で「貿易財の価格を計算の基礎とすべき」とのコンセンサスがある。一口に貿易財の価格指数といっても多種多様だが、最近の計算例では、輸出物価ベースのPPPを1ドル=100円割れと算出しているものが多い。
一方、日米の経常収支不均衡については長らく、米国側の膨大な経常赤字の「維持可能性」(サステナビリティー)が市場参加者、経済学者を問わず問題とされてきた。つまり、「巨額の経常赤字の継続と対外純債務の累積は、やがては債務返済の確実性に対する強い疑念を生じさせる結果となるはずで、維持可能ではない。だとすれば経常赤字調整のため、いずれドルは市場の予想以上に下落するほかない」という懸念である。
日本の「経常赤字」化のリスクは十分織り込まれているのか
ただ、長期的な観点から注意すべきは、経常赤字の問題を抱えているのが米国だけとは言い切れないことだ。たしかに現状では、日米二国のうち経常赤字の問題を抱えているのは米国だ。しかし長期的には日本の経常収支の赤字転落を懸念させる材料もある。経常収支はマクロ経済的な視点から見れば国内貯蓄と国内投資の差額のことであるが、日本においては長期的には人口高齢化の急激な進展とともに家計貯蓄の大幅な減少が生じる可能性が無視できない。家計貯蓄が大幅に減少するならば、経常収支は大幅に悪化するかも知れない。
現状では将来の家計貯蓄については楽観論、悲観論が並立しているが、ポイントは日本の将来的な経常収支動向の不透明感が強いことである。今後、短期的には米国の株価急落や経常赤字懸念のみに注目した一方的な円買いが発生するリスクには警戒を怠れないが、そうした日本の長期的な経常赤字の可能性を全く無視するかのような急激な円高への振れがひとたび生じれば、将来的に逆に大幅な円急落のポテンシャルを蓄積する結果となることが懸念される。
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