市場経済下の企業経営
イトーヨーカドーグループ 名誉会長 伊藤 雅俊
2000年4月
要旨
今日本の産業界は歴史の境目とも言える構造改革期にあると言われています。その本質は日本に本当の意味での市場経済が初めて導入されようとしていることと言えます。と言いますのは、今まで日本に市場経済があったかと疑問を感じるからです。
確かにこれまで市場経済化、グローバル経済化が叫ばれてきましたが、資本市場一つをとっても、レーティングが本格化したのはここ数年のことですし、労働市場にしても日本的な年功序列、終身雇用制の中で流動性ある市場が存在していたとは言えないと思います。本当の意味での市場がないままにビジネスが行われてきたところに、厳しい競争を伴う市場経済原理が導入され、企業が行動を変えざるを得なくなったというのが今日の状態と言うことができるのではないでしょうか。
昨今ようやく「顧客志向」が叫ばれるようになり、特に情報通信機器業界などでは需要と供給のバランスが崩れ、短期間のうちに価格破壊が進行しています。これなどは、市場経済の原則がいよいよ浸透し始めた証と考えられます。
グローバル経済化に関して言えば、インフラにかかるコストの違いがあり単純に比較は出来ませんが、今日本の食品の値段はアメリカの2倍以上と言われています。東南アジアと比べれば10倍にも上ります。こうした中でグローバル経済化が進み国境がなくなるとしたらどうなるでしょうか。これが今日の構造改革期の中身だと思います。まさに明治維新の開国か江戸時代の鎖国かといった歴史の境目に来ていると感じております。
市場経済化が進展する中で、経営者はどのような視点で経営の舵取りを行うべきでしょうか。こうした時代にはまず、鳥瞰的にマクロからものを見ることも大切ですが、むしろ虫の目、つまり現場に目をやりミクロでものを見ることが重要ではないでしょうか。卑近な例でいえば、タクシーの運転手さんが売上の増減で感じ取る景気の良し悪しの方が、マクロエコノミストの話よりも時代の流れを的確に知ることができ経営の参考になるのではないでしょうか。
そもそも市場経済においては、顧客の価値観に沿って市場が動き、需要と供給のバランスでものの値段が決まるものです。コストプラス利益が商品の値段とする考え方は、通用しません。そこには顧客の視点がないからです。市場経済の時代は顧客の価値観を理解することが大切です。「お客様は来て下さらないもの」だと考え、ではどうしたら来ていただけるかの努力をするのが商売の本道だと思います。
よりお客様の立場に近づき、信用を大切にし、お客様のニーズに応えずに何もしないでいればお客様の信頼を得ることはできないと考え、約束を必ず守り真面目に対応する。こうした地道さが商売の本道であるとともに、どんな時代でも生きぬいて行く上での経営のあり方でもあるのではないでしょうか。
またお取引先は商品を卸していただけないものと思うべきです。かつてスーパー業界は牛乳や化粧品を納入してもらえない時代がありました。小売店ルートなど既存の販売ネットワークの壁があり、メーカーが商品をスーパーに卸してくれなかったからです。ところが牛乳の入れ物がテトラパック型から現在普通に見られるろうそく型になった頃から、お客様はスーパーで買う方が便利と感じるようになりスーパーの取り扱いが増大しました。化粧品に関しては10年の交渉期間を要してついにスーパーでも扱いができるようになりました。商品販売ルートの世代交代が実現したわけです。こうした変化が実現した背景には、「お取引先は売ってくれないもの」しかし「お客様にとってどうなのか」と考えて、粘り強く交渉を続けてきた努力がありました。市場経済化の時代には、こうした既存の仕組みを突き破るケースが次々と起こって来ると思います。既存の仕組みを壊す努力をするべきか否かの判断は「お客様にとってどうか」の視点でものを考えることに尽きるのです。
右肩上がりの時代、多くの日本の企業は金融機関からの借入金を、利息を払った後は自己資本であるかのように錯覚してしまったのではないでしょうか。それが企業の借金体質を産み、バブル時代の投資に結びついていったと言えます。市場経済の時代においては、この借金体質を改め、自己資本の充実を図り自己資本利益率の向上を図ることで、時代の変わり目にも素早く対応できる強固な経営基盤を築く必要があります。つまり「銀行は貸してくれないもの」の視点で経営を考えることだと思います。企業にとって元手つまり資本の充実は、お客様の信用を得る上で大切なものなのです。
日本の産業社会が構造改革を経て、真の市場経済が実現したときに、この「お客様は来てくださらないもの」「お取引先は売ってくれないもの」「銀行は貸してくれないもの」の3点が、企業経営を考える上で重要な視点として浮かび上がってくるだろうと思います。
また歴史の境目にある今日、企業は「人は過去の経験にこだわりやすい」というマイナスの経営資源を内包していることに注意を払うべきだと思います。あくまでも市場は顧客のニーズに従って動くものであり、それに対応した経営戦略を展開しなければなりません。加えて、企業経営は机上科学ではない、「虫の目」で顧客行動を観察しそこから経営判断する実験科学と心得ることも大切な視点といえます。とりわけ大企業は机上科学で経営判断をしがちな傾向があることに注意するべきです。顧客の満足や不満に対して、迅速に適応する戦略が取れるか否か。これが今日の厳しい経営環境の中で、そして市場経済化時代において企業経営に問われているものだと思います。