講演:日本産業の新秩序
日本経済研究センター理事長 香西 泰
1997年7月
要旨
激しい技術革新の中で、新しい産業秩序が形成されつつある。これをどのように評価すればよいか。 19世紀の生産システムを反映した新古典派理論から、20世紀初頭の大量生産システムを反映した新産業国家論へと、経済学は時代に対応した理論モデルを提起してきた。
新しい産業秩序を評価するに際し、以下の3点に留意がいる。(1)独占の概念を改める必要があること。(2)理論と実際のギャップを常に意識する必要があること。(3)所得分配からの評価が必要であること。
本文
産業系シンクタンクの存在意義
技術革新が日本産業に新秩序をもたらし、経済パフォーマンスに大きな影響を持つ今日、産業を基盤にした研究所の強みは、技術の変化を直接背景に持っていることである。産業系シンクタンクには、成長率の議論に固執する他の多くのシンクタンクとは違い、独自の存在意義がある。富士通システム総研の社会的使命も、まさにそこにあるといえよう。
ここでは、激しい技術革新の中で産業秩序の変化が、どのような意味を持つのか若干の私見を述べたい。
技術進歩と経済学のアプローチ
(1)新古典派の見方
これまで経済学では、技術を直接扱わずに生産関数を媒介とし、投入と産出の関係にのみ絞って問題を考えてきた。投入や産出は、鉄鋼何トンとか自動車何台という具体的な数値であり、容易に操作できるため、技術知らずのエコノミストも、こうして技術進歩を議論することができた。
新古典派の秩序とは、投入産出における代替関係や限界生産力逓減の結果、市場に均衡が存在し、その中で価格メカニズムが有効に働くというものであった。
このような秩序は、比較的小規模の工場で親方と職人がいる組織(イングリッシュモデルとかイングリッシュシステム)に対応したものであり、まさに19世紀末、マーシャル(Alfred Marshall)の教科書でイメージされた組織である。
しかし時代とともに、新古典派モデルは実態と乖離しはじめてきた。
(2)ガルブレイスとドラッカーの見方
新古典派モデルに対する批判に、ガルブレイス(John K.Galbraith)の新産業国家論がある。経営と資本とが分離した大企業において、経営者は独立したテクノクラートとなり、独自の長期計画をたて成長を追求する。
また、大企業は自己金融と管理価格によって市場をコントロールすることができる。
これは、19世紀末から20世紀に成立したフォードシステム(アメリカンシステム)のような寡占企業による大量生産システムに対応したものである。
しかしながら、例えばドラッカー(Peter F.Drucker)は、自己安定的テクノストラクチャーという仮定に対して批判を展開した。70年代を境に、大企業による寡占体制は現実に合わなくなった。ベンチャーキャピタルや資本市場の役割が大きくなり、一種のゲリラが大企業を餌食とした。そういう現象が、産業界に続出してきたからである。あたかもベトナム戦争で、非常に近代化されたアメリカの大軍が、ゲリラにつぶされていくようにである。
複雑系の経済学
新古典派モデルや、寡占体制モデルに対して、新しい考え方が生まれつつある。
その一つが、ブライアン・アーサー(W.Brian Arthur)を代表とする複雑系の経済学である。彼の著作である“Increasing Returns and Path Dependency in the Economy”(1994)における主要なアイデアは、収穫逓増と経路依存性の2点である。
従来の経済学では、収穫逓増は異常な現象であった。つまり、収穫逓減でなければ均衡は存在しない。もし収穫逓増なら、生産は拡大しやがて独占状態になる。その結果、市場経済は機能しなくなる。しかしアーサーは、現在の経済社会では収穫逓増の方が、むしろ普遍的であると主張している。
また経路依存性では、どの均衡へ収束するかは、その経路途中の小さな事象(スモールイベント)、すなわち偶然に支配されることを主張している。そのスモールイベントの積み重ねの結果、ある均衡へ収束するのであり、従来の理論のように最初から合理的にある均衡へ収束するわけではない。従って、その均衡が最も合理的か否かも分からない。
こういう考え方は、クルーグマン(Paul R. Krugman)の産業立地論にも表われる。当初の立地については、偶然の要因が非常に大きい。しかし、一旦そこである産業が発達すると、そこに次の産業が興り、集積の利益が発生する。そういう意味で、クルーグマンも同様の考え方を持っている。
日本の生産システムと複雑系
収穫逓増とか経路依存性という考え方は、日本のエコノミストにとっても非常になじみ深い考え方である。例えば費用逓減(収穫逓増と同義)は、村上泰亮の『反古典の政治経済学』(1992)におけるキーコンセプトである。収穫逓増を無視し、新古典派パラダイムに固執していれば、開発政策の意味を見失ってしまうと指摘する。
また経路依存性は、青木昌彦と奥野正寛『経済システムの比較制度分析』(1996)におけるひとつのテーマである。選択の過程で物事は決まっていくのであり、あらかじめ均衡が存在するのではないと説く。さらにここでは、「補完性」という概念を提起する。みんなが右を歩くなら右を歩いたほうが得だという戦略的補完性や、どこかで終身雇用が始まると、転職は不利になるためやがて経済全体が終身雇用になってしまうという制度的補完性である。補完性という概念は、複雑系の考え方と非常に近い。
日本のエコノミストが、これらの概念に早くから注目していた背景には、フォードシステムに対してトヨタシステムといわれる日本の生産システムを理解する上で、非常に有効だったからである。例えば、終身雇用とメインバンク制との間に補完性が生まれ、ひとつのシステムというものができあがる。そういうシステムは、単純な経済学の教科書における均衡モデルとは異なっており、そこに日本のシステムの一種独自性があるといえる。
デファクト・スタンダード
これに関連して、デファクト・スタンダードも、経路依存性や補完性と同様に理解することができよう。例えば、タイプライターの文字配列である。最も合理的配列ではないが、それが一種のデファクト・スタンダードになった結果、一種の安定性を確保したと考えられる。ただし、次の点は注意しておきたい。
もしこの文字配列が、ものすごく非合理的なら、別のシステムが登場していたはずである。偶然どちらかになったのは、サイコロで決めて良いような問題であるから、サイコロで決まったのだと考えられる。VHSとベータの競争も、もしどちらかが技術的に絶対優位にあれば、それが選ばれたのであり、技術的に差が大きくないから、あのような結果になったと考えることもできる。
ただし、どちらかが決定的に優れている場合でも、そうでない方が結果的に選ばれることはありえる。別の機会には、異なった結果が生じるとしても、今回は選ばれなかったという例は確かにありえる。
新しい競争形態
もうひとつ面白い議論として、ウィナー・テイク・オール(Winner-take-all)というものがある。スピードが競争の重要な要素となった結果、これまでならば2番手、3番手でも結構やっていけたものが、瞬時に勝負がつき勝者がその利益を全てを取ってしまうことがありえる。
新古典派は完全競争を念頭に置き、ガルブレイスは一種の固定的な寡占を考えた。それに対し、収穫逓増や経路依存性のモデルでは寡占化していく過程が描かれた。このウィナー・テイク・オール型は、瞬間的な独占形成をイメージしている。
ただし、ウィナー・テイク・オールでひとたび独占状態が成立しても、急速な技術革新の中では新たな競争が次々と発生し、次の競争では敗者となる可能性もある。つまり、ここでの独占は安定的ではない。
新秩序に対する多面的視角
エコノミストも、全く現実を見ていないわけではなく、絶えず現実に接近しようとして、新しい考え方を提起してきた。しかし、これまでみてきた様々なモデルで、日本産業の新秩序を十分描ききれるかは疑問である。
例えば日本経済の高コスト問題では、伊丹敬之氏はオーバースペックが最大の問題であると主張される。その歴史的事実の確認は留保するとして、なぜ日本企業はオーバースペックになるのだろうか。
文化的要因も一因であろうが、そもそも日本の設計技術が弱いため、そうならざるえないという指摘がある。そうであるなら、データの互換性などが進展する中で、企業内技術・熟練などへの評価が変化する可能性がある。これまでは、品質に対する責任がとれ信頼できる体制として評価されてきたものが、それは一種の過剰な独占利潤の使い方であり、設計もオープンではないと批判されることになる。このように各モデルによって、その評価が大きく違ってくる。
同様に日本産業のシステムを評価するにも、全く反対の評価が下されることがある。産業の新秩序を評価するにあたって、次の3点を考慮することが重要である。
まず、独占に対する考え方である。ウィナー・テイク・オールや、収穫逓増では市場は独占に到るが、その独占とは不安定なものであり、またいわゆる独占資本とは異なったシュムペーター(Joseph A.Schumpeter)流の創業者独占である。今後独占を考えるにあたって、競争に対立する独占という発想は改める必要がある。
また、理論モデルの適用範囲についての注意も重要である。産業ごとに適した生産システムは異なるであろう。ポーター(Michael E.Porter)が主張するように競争優位の観点からのシステム評価も必要である。アウトソーシングとホームメードとの間は完全な代替関係にあるのではなく、バランスをとった補完関係にあるのではないか。そのバランスを見極める必要が、今後ますます高まる。
さらに、所得分配の問題も重要であろう。例えば、日本は所得分配が平等だという考え方が存在する一方で、能力を正当に評価しない結果としての平等であるという評価もある。低所得の間は平等が要請されても、ある程度の生活水準が達成されたあとは、むしろ所得格差が存在する方が正常ではないか。この問題は、様々なモデルを通じて多角的に評価されなければならない。
今、日本で起きている大きな技術革新や環境変化の中で、どういう形で安定性とリスクテーキングのバランスを取っていくのか。つまり、所得の平等と経済発展との間のポートフォリオセレクションをどのようにつけていくのか。今後このことが、新しい産業秩序の決定的な要素として、ますます重要になってくると考えられる。
