社会の価値観の変異と家庭教育の崩壊
発行日 2006年11月24日
上席主任研究員 柯 隆
ジョン・ロールズは社会の公正(justice as fairness)を合理的なもの(the reasonable)と理性的なもの(the rational)に区別する必要があると指摘する(「正義論」)。ヘーゲルは存在するものがすべて合理的であると述べている。しかし、合理的なものは必ずしも理性的なものとは限らない。
身分判断の価値基準の変化
- 計画経済では、金銭的な力は社会のなかで最重要ではなかった。重要なのは社会における位置づけ、すなわち、「身分」である。たとえば、個人経営者よりも国有企業の労働者のほうが身分的に上だった。計画経済から市場経済への移行によって、社会契約、すなわち、社会の秩序が大きく変化し、金銭的な価値観が社会の種々の活動を凌駕するようになった。人々の身分を判断する材料は、どのような企業に勤めるかではなく、(1)どのような仕事をしているのか、(2)町のどのエリアに住んでいるのか、(3)家が借家なのか、マイホームなのか、が身分判断の新たな尺度になっている。
- 中国には、インドのカースト制のような身分制がないが、社会の価値観が変化することによって、所得格差の拡大に伴い、「身分」に見合った処遇がされるようになった。
- 計画経済の社会と市場経済の社会を比較すると、一つだけ共通した点がある。すなわち、いずれも知識を軽蔑することである。計画経済はその人の背後にある権力がものをいう。市場経済はその人の持つ財産と資金力がものをいう。
- 日本では、学校のいじめ問題が騒がれているが、中国では、子供同士のけんかにおいて金持ちの家の子が貧しい家の子に対して、「(俺の)話を聞かなかったら、おやじに頼んで、お前のおやじを買っちゃうぞ」と暴言を放した、という事件が起きている。すなわち、子供の間でお金が万能であるということになっているようだ。
- バートランド・ラッセルは「子供に完全な自由を与えるべきではない。若者に、大人になってから社会に順応できるように、若いころに彼がこの宇宙の中心ではないことを認識させるべき」という。祖父が2期に亘ってイギリスの首相を務めたラッセル氏は、若いころ食後のデザートが2種類出されても、1種類しか選べないという厳格な家庭教育を受けていた。恐らく日本も中国も急速に豊かになったから、親が子供に対する理性的な心情、すなわち、平常心を失ったのではなかろうか。子供に自らが経験した苦労をさせないため、という親心は分かるのだが、ラッセルがいう順応性を育成するために、苦労させなければならないのである。
物質的な豊かさと精神的な豊かさ
- 思想史においてプラトンによって精神的な世界と物質的な世界が区別されるようになった。戦後の日本と「改革・開放」政策以降の中国はいずれも物質的な面で満足するようになっているが、精神面の豊かさは実現されていない。成人病をもたらす飽飲飽食は見た目では単なる食欲の放縦によるもののようにみえるのかもしれないが、実は、精神力の脆弱さを背景とする自律神経の乱れが一番の原因である。途上国では、金持ちが太るのに対して、先進国では、貧しいヒトが太る。その背景に物質の誘惑に対する精神力の強弱の相違がある。
- 計画経済はすべての中国人を極度の貧困に陥れた。80年代からの経済の自由化によって豊かになろうとする中国人の欲望は一気に芽生えた。一方、70年代後半、「改革・開放」政策の直前に一人っ子政策が実施され、現在、30代以下の世代はほとんど自己中の一人っ子である。もやしのように大切に育てられた一人っ子は社会の価値観の急変によって進むべき方向性を失ったのである。
- ミクロ的には、親が一人っ子のために最善を尽くし最高の学校教育を用意しようとしている。しかし、学校教育よりも大切なのが家庭教育であることを忘れてはならない。家庭のなかでのコミュニケーションが重要だし、適度な緊張感と秩序を保つことが不可欠である。
- 他方、マクロ的に、市場経済化が「金銭万能主義」という大きな流れを作り出しているなかで、個々人はそれに追随するだけになっているのでは、悲劇が起きる。重要なのは皆に追随することが合理的(reasonable)かもしれないが、理性的(rational)かどうかを冷静に考えることである。
- 皮肉なことに、日本と中国は経済の発展段階が異なるが、直面している社会問題はあまりにもよく似ている。この先、同床異夢ではなく、呉越同舟の関係において互いに協力して共通した問題を解決していくことが期待される。
