English Garden
[第9話] 領事館通訳になって

【義兄との再会】
1859年7月1日(安政6年6月2日)、ハリス公使とドール神奈川領事と共にヒコを乗せた「ミシシッピー号」は神奈川の港の開港に合わせて入港しました。(第1話参照)
アメリカ領事館の開館はアメリカ独立記念日の7月4日、ヒコが昨年の独立記念日の翌日にニューヨークを発ってからちょうど1年が経ちました。
領事館職員としての最初の仕事は、必要な家具類の調達と、日本人の料理人や掃除人の雇い入れです。当時外国人は日本人との直接取引が禁止されていたので、すべて奉行所を通さなければなりません。
建物の改造や調度品の購入は、ヒコがアメリカでの経験を生かして奉行所や職人に希望を伝えたのでスムーズに運びましたが、一般に外国人は野蛮で凶暴だと恐れられていたので、使用人を見つけるのは骨が折れました。ヒコはまた、ハリス公使のいる江戸の公使館にも出向いて準備を手伝うこともありました。
やがてヒコは入港する船の積荷の買い付けもするようになり、ヴァン・リードと共に横浜まで出かけ、ほぼ1週間もかけて船いっぱいの商品を買い付けることもありました。
奉行所や商人と関わる機会がふえるにつれ、ヒコの名前も広く知られるようになりました。顔は日本人で日本語が達者、それなのに流暢な英語を話し、服装や身のこなしは外人そっくりというヒコは目立つ存在で、「アメリカ人となって帰国した日本人の漂流民」といううわさが広まっていきました。
7月の半ば過ぎ、ヒコは顔見知りの日本人の商人に、「ヒコさん、あなたにお兄さんがありますか」と聞かれました。「兵庫から来た回船の船頭が、自分の弟らしい青年がアメリカから神奈川に来ていると聞いたのでたしかめたい、といっている」とのことです。ヒコは、もしや、と思って領事に翌日の休暇を申し出ました。領事は「すぐ行きなさい。兄さんをここに連れてきて、泊まってもらうといい」といってくれました。
翌朝ヒコはその船頭が泊まっているという品川の回船問屋を訪ねました。案内を乞うと出てきたのはまぎれもない義兄の宇之松です。ヒコは思わず歩み寄って「彦太郎です、にいさん、お久しぶりです」と声をかけましたが、宇之松は当惑した顔でヒコを見つめるばかり。それもそのはず、9年前に別れたときはまだ子どものまげを結っていたヒコが、すっかり成人して、西洋人のような身なりをしているのですから。
ヒコは、「父さんはお達者ですか」と義父の安否をたずねてから、次々と叔母さんや近所の人の名前をあげて話題にすると、宇之松はようやく義弟の彦太郎の面影を認めたのか、口をゆがめて大粒の涙を流しました。
「ああ、彦太郎か、よく無事で生きていたな」
「にいさん!」
2人は肩を抱きあって涙にくれ、しばらくは声も出ませんでした。
ヒコたちは家の中に招かれて、茶菓のもてなしを受けながら話を続けました。
義父は3年前に脳卒中で世を去ったとのこと。恩を受けた義父に、もう親孝行をすることもできない、とヒコは唇をかみました。宇之松は続けます。
「何年か前、『栄力丸』で遭難した乗組員がもどってきて、村じゅうが大騒ぎになった。でもおまえはアメリカへ行って行方がわからないということで、もうあきらめていたのだよ」
それに答えてヒコは、アメリカでの生活をこまごまと語り、ようやく帰国がかなって神奈川の領事館で通訳として働きはじめたことを話しました。
ひと通りの話が終わり、ヒコは義兄に領事に会ってほしいと頼みました。義兄は、外国人はどうも、と最初ためらっていましたが、弟のご主人様にお礼を申し上げなければなるまいといって、一緒に領事館に向いました。
領事はにこやかに迎えましたが、身の丈2メートル近くもありそうな西洋人に大きな手を差し出されて宇之松はたじろぎ、ヒコに「いったい何をしようというんだ」とたずねました。握手という挨拶もはじめてのことでした。
領事はボーイに茶菓の用意をさせ、ヒコに絵入り新聞を持ってくるように、といいました。ヒコが新聞や風景写真などを持ってきて見せると、義兄はひどく感心したので、領事はその新聞や銀貨などをみやげとして持たせました。
夕食後、領事は泊まっていくようすすめましたが、宇之松は仕事があるからと丁重に断りました。別れるときヒコは「私の顔を思い出してください」といって、サンフランシスコでヴァン・リードと一緒に撮った写真を渡しました。義兄はまたびっくり、本人と見比べて「まったく同じだな」と感心しながら駕籠(かご)にゆられて帰っていきました。
この写真には後日談があります。宇之松は親戚や友人たちに見せたところ大評判となり、半年後大阪奉行所から「その不思議なものを持って出頭せよ」との命令。出頭するとひと月半も宿に拘留され、幸い釈放されましたが費用は自分持ち、写真は預かりになりました。
さらに半年後、また大阪奉行所から呼び出されて写真を返してもらいましたが、「家族以外誰にも見せることはならぬ」と厳重に申し渡されたとのこと。まだ庶民は、外国人と会ったり外国の品物や情報を手に入れたりすることは禁じられていたのです。
【外国人居留地の問題】
義兄との再会から間もなく、ドール領事は外国人居留地問題の折衝のために神奈川奉行所を訪れることになり、ヒコの領事館通訳としての本格的な仕事がはじまりました。
以前からハリス公使もドール領事も、外国人居留地はあくまで神奈川と主張していました。当時の横浜は天然の海岸線と東側の掘割で囲まれた島のような状態で、本土とのあいだには3本の橋があるだけ。そんな横浜に「隔離される」ことに抗議するためでした。
応対したのは外国奉行兼神奈川奉行の堀織部正(ほりおりべのかみ)。ドールの激しい抗議に対して、奉行は威儀を正し、落ち着いた口調で答えました。
「いま国内には開国に反対する過激な攘夷論者が大勢いて、外国人に危害を加えようとしています。交通の頻繁な神奈川では外国人の安全が守れません。それに、横浜の海は神奈川の海より深いので、大型船の入港に適しています。ここに港町を築いたほうが、外国人にとっても将来ずっと有利です」
これに対してドールは、通商条約に神奈川と明記されていることをあげ、あくまでその通りに実行するよう迫りました。しかし奉行はよどみなく答えます。
「たしかに開港場は神奈川となっていますが、横浜は神奈川の一部である浜の名称にすぎません。現にペリー氏が条約に署名されたのは、横浜の運上所脇の林の中でした」
領事はこの理路整然とした奉行の答えに反論できず、引き下がりました。
ヒコは通訳をしながら、この堂々とした奉行の態度に驚嘆していました。大国を後ろ盾にして居丈高に主張を通そうとする領事を相手に、一歩も引かず、対等に自国の見解を述べる奉行。そこには犯しがたい威厳があり、ヒコは日本の侍の魂にふれた思いでした。
事態はそれから急速に進展します。日を置かずに進出してきたのはアメリカの有力商社ウォルシュでした。支配人のジョージ・ホールは、ハリスやドールから神奈川に商館を置くよう勧告されましたが、独自に港湾施設などを調査した結果、横浜がはるかにまさるのを見て、横浜側の区画を買ったのです。これをきっかけにジョーディン・マジソン会社やデント商会なども横浜を居留地に選んで商館の開設を始めます。ヒコとしても、神奈川に固執する領事に味方する気にはなれませんでした。
【ブルック大尉を迎えて】
7月の末、ヒコが帰国の際にハワイまで乗せてもらった測量調査船「クーパー号」が入港してきました。艦長のブルック大尉はじめ乗組員一同みな無事にまだ調査航海を進めている途中であり、日本沿岸の測量を行った際に領事を表敬訪問したのです。
ヒコは大喜びで出迎え、領事に大尉との関係を話しました。領事は興味を示して、翌日大尉を晩餐に招待しました。
ところが、その晩餐会の席で、あわや決闘という椿事が起こったのです。
食卓の会話は大尉の測量の話を中心に、なごやかに進みましたが、話題がヒコの漂流からサンフランシスコで税関の監視船「フロリック号」にいたときのことに及んだとき、ヒコは領事に問われるままに「英語もろくにできない者に給料を払う必要はない」といわれた一件を話しました。領事が「フロリック号」の艦長の名前を聞いたので、ヒコが「H氏」と答え、「人間のできていない男」というような言い方をしたところ、領事は声を荒げて、
「あの艦長は私の友人だ。もう1度そんな言い方をしたら、ここから蹴りだすぞ」
とどなりました。ヒコは、
「ご友人だったとは失礼しましたが、私は自分の受けた扱いに対して感想をいっただけです。私には感想をいう権利もないのでしょうか」といいました。すると領事は、
「あたりまえだ。おまえにそんな権利などあるものか」と失礼なことをいいます。
それを聞いたブルック大尉は、血相を変えて立ち上がりました。
「あなたはH氏の友人かもしれないが、ヒコは自分の意見をいっただけです。それなのに、蹴りだすなどとひどいことをいわれる。ヒコは私の友人です。さあ、できるものなら蹴りだしてみたまえ」
ちょうどそこに料理の豚の頭が運ばれてきました。領事はそれを切り分けながら、
「私の食卓で余計な口出しをする者は、このようにしてやる」と放言。
それを挑戦と受け取った大尉は、顔を蒼白にして進み出ると、
「領事殿、さあ挑戦を受けましょう。武器を選んで外に出なさい」と厳かに宣言しました。
成り行きを見守っていたヴァン・リードがすかさず歩み寄って大尉を止め、ヒコもそれ以上自分のことでむきにならないでほしいと懇願しました。さすがに領事も大尉の剣幕に押されて後ずさりしながら、
「いや、挑戦なんてとんでもない。ほんの冗談だ。それにここには武器もないので」と取りつくろいました。
険悪な空気はひとまずおさまり、冗談に流して食事は続けられましたが、ヒコは自尊心をひどく傷つけられました。結局自分は仲間とはみなされないのだと、「フロリック号」のときと同じ悲しみをまた味わうことになったのです。
【ロシア人殺傷事件】
それからおよそ1ヵ月後の8月25日、外国人殺傷事件が起こりました。
品川沖にシベリア総督ムラビョフを乗せたロシア艦隊が停泊しており、士官1名と水兵3名がボートで横浜に上陸、買い物をしてもどる途中で暴漢に襲われたのです。犯人は日本刀で切りつけて水夫の1人を即死させ、あとの3人に傷を負わせて姿をくらませました。けが人は仮宿舎に収容されましたが、間もなく重傷の士官も死亡しました。
ただちにアメリカ領事館にも連絡があり、ヒコは領事と現場に急ぎました。そこで見たのは一刀のもとに斬殺された無残な遺体。負傷者の手当てをしたのはウォルシュ社のホール博士です。死者は仮宿舎に安置され、負傷者はすぐロシア艦隊に引き取られました。
横浜の町は騒然としました。奉行所は犯人さがしに躍起となり、各国領事は居留民に厳重注意を呼びかけます。
3日後に行われた葬儀には、ロシアの海兵隊が上陸し、各国領事と領事館員、外国居留民も参列、神奈川奉行も参列するよう要請され、日本の慣習を破って会葬しました。
翌日ポポフ提督は副官と共にアメリカ領事館を訪れて会葬の礼を述べ、事件については奉行と何度か折衝しているが、話が通じなくて困っていると話しました。そこでヒコが通訳の労をとることになりました。
会談は2日後、横浜の奉行役宅で行われました。大広間にはロシア側に提督と副官、英仏語を話す通訳とヒコの4人、日本側に水野、酒井両神奈川奉行および目付や役人が向かい合ってすわりました。
会談が始まり、まず提督が犯人捜査の状況について質問し、奉行が答えます。
「八方手をつくして捜索しているが、まだつかまらない。下手人の遺留物をお見せしよう」奉行はテーブルの上に、折れた刀身、血のついた羽織の切れ端、ブリキの箱を並べます。
提督はそれらを手にとって入念に調べました。ブリキの箱には数枚のロシア銀貨が入っていました。提督が、犯人逮捕に努力しているのかと重ねてたずねると、奉行は
「法に照らして処刑するよう全力をつくしている」と答えました。
会談は2時間におよび、そのあと日本式の昼食が出されました。
数日後、今度はロシア艦で会談が行われましたが、奉行側の捜査は進展しておらず、「全力をつくしている」という発言の繰り返しで終りました。
昼食後奉行一行が帰ると、提督はヒコを甲板にさそい、一緒に歩きながらたずねました。
「奉行らはほんとうに下手人の発見に努力しているのだろうか」
「成果は上がっていませんが、真剣に努力していると思います」
奉行たちの表情や話しぶりに誠意が感じられたので、ヒコは感じるままを答えました。
提督は深くうなずきながら、「私も満足している」といい、
「ヒコさんにはたいへんお世話になった。おかげで奉行からたくさんのことを聞き出すことができてうれしく思っている」と感謝しました。

翌日、ヒコが領事と外出している留守に、ポポフ提督は別れの挨拶にやってきて、ヒコへのお礼だといって、ヴァン・リードに金時計を託しました。提督が身につけていたもので、ヒコはその好意を受け、長く愛用しました。
その後ロシア側は幕府に「幕府高官がロシア艦に来て謝罪すること、犯人を逮捕してロシア兵の前で死刑にすること」など4項目を要求、幕府はすべて受け入れてこの事件は落着しました。(数年後水戸天狗党の一味という犯人が捕まり、横浜でさらし首になりました)
この事件について、ホノルルの『フレンド』紙(1862年7月)に次のような内容の記事が載っています。「日本当局から満足のいく返答をえられなかった総督は、横浜の町を砲撃する決意をかためていたが、ヒコがみごとな通訳で仲裁の大役を果たした」
ひと月ほどしてヒコは奉行所からまた呼び出しを受け、サンフランシスコで別れてきた漂流仲間の治作についてたずねられました。箱館奉行からの情報で、治作は4月にアメリカ船から箱館奉行所に引き渡されて入牢し、2週間ほど取調べを受けて出牢したそうです。その経歴に帰国の際のヒコの身上書と共通した点があるので、ヒコにたしかめたのでした。ヒコはその通りです、と証言し、これで治作も無事に故郷に帰れるだろうと喜びました。
参考文献
“The Narrative of a Japanese” Vol.1,2 by Joseph Heco, edited by James doch. American-Japanese Pu. 1890
『アメリカ彦蔵自伝』1,2 中川努・山口修訳 平凡社 1964
『開国逸史 アメリカ彦蔵自叙伝』 土方久徴・藤島長敏共訳 明治文化研究会編(ぐろりあそさえて昭和7年原本)ミュージアムアム図書発行 平成10年
『クリスチャン ジョセフ彦』近森晴嘉 アムリタ書房 昭和60年
『アメリカ彦蔵』吉村昭 新潮社 平成13年
『ヒコの幕末』山下昌也 水曜社 2007年
『開港場 横浜ものがたり』編集・発行横浜開港資料館・横浜市歴史博物館 1999年
『ペリー来航と横浜』編集・発行横浜開港資料館 2004年
『港都横浜の誕生』石井孝 有隣堂 昭和51年
『タウンゼンド・ハリス――教育と外交にかけた生涯』中西道子 有隣堂 平成5年
『ドクトル・ヘボン関連年表』石川潔著作・発行 1999年
『伝記 ペリー提督の日本開国』サミュエル・エリオット・モリソン 座本勝之訳 双葉社 2000年(第4話より追加)
『漂流――ジョセフ・ヒコと仲間たち』春名徹 角川書店 昭和57年(第4話より追加)
