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富士通アドバンストソリューションズ

Japan

English Garden

[第3話] アメリカに渡る

救助された彼らは舞踏会で歓待された

【「オークランド号」に救助されて】

  ヒコたち「栄力丸」の乗組員17名を救助したのは、中国からサンフランシスコに帰る途中のアメリカの貨物船で、3本マストの帆船「オークランド号」でした。
  船長はやせて背が高く、口ひげと顎ひげのある40歳くらいの男です。乗組員は船長をはじめとする船員9人とコックとボーイで、全部で11人。たったそれだけでどうやってこの大きな船を操るのかと、みな驚きました。
  変わった容貌の乗組員の中で、日本人に似た顔つきの者がひとりいました。コックです。でも奇妙な髪型で、頭のまわりを剃り、脳天だけ長く伸ばした髪を編んで後ろに垂らしています。長崎に行ったことのある仲間が「辮髪(べんぱつ)だ、中国人だよ」といいました。
  コックは船長の指図で紙と墨汁の入ったつぼを持ってくると、紙に筆で「金山」「米利加」と書きました。さあ、意味がわかりません。これが「金山のあるアメリカへ行く」ということだとわかったのは、サンフランシスコに着いてからです。当時カリフォルニアでは大規模な金山が発見され、いわゆるゴールドラッシュの真っ最中でした。
  船長は船の中を案内してくれました。まず食料庫に連れていき、食料の入っているらしい箱をたたいて「プレンティ」。「食料はたっぷりある」という意味のようです。「おれたちを食うつもりだろう」と本気で心配していた者たちも安心しました。
  それから船長は自分の部屋に連れていきました。ビロードを張った豪華な椅子がいくつも並んでいます。航海士がテーブルの上に大きな海図を広げ、広い土地を示して「アーメリカ」といい、船の床を指差しました。「アメリカという国なら聞いたことがある」と仲間の水夫がいい、この船がアメリカの船らしいことがわかりました。次に小さな島を示して「ジャパン、エド」といってヒコたちを指差しました。自分たちのことらしいと感じたものの、日本がそんなに小さな島のはずはないと思い、だまっていました。
  一同はまた甲板に上がりました。ごつい顔の乗組員たちも思いのほか親切です。船がいつ陸に着くのかたずねると、指を折ったり寝るまねをしたりして「42日」との答え。そんなに先なのか、それなのにどうして正確な日数がわかるのか、とまたびっくりです。

  船長は毎朝1等航海士と甲板に出て、眼鏡のようなもので東の方をのぞき、大きな本を出して計算してはノートに何か書き込んでいます。水夫のひとりがそれを見て、「波を数えているのだろうか」と首をかしげました。上下しながら続く英語の文字が、波を写しているように見えたのです。この作業は、経度と緯度、つまり船のいる位置を知るために行う天測というものだと、あとで教わりました。
  海図を見せてくれた2等航海士はとりわけヒコをかわいがり、ある日自分の古い服をヒコの体に合わせて縫いなおしてくれました。着物にくらべて少しきゅうくつな感じでしたが、とても暖かく動きやすいので、ヒコはていねいにお辞儀をして感謝しました。
  次の日、2等航海士はヒコを椅子にすわらせ、自分の頭を指差しながら、ヒコのマゲを引っ張ってしきりに何かいいました。ヒコは「髪型がちがう」とでもいっているのだろうと思ってうなずくと、航海士はハサミを持ってきてマゲを切ってしまいました。ぎょっとしたヒコ。漂流のあいだ「無事に故郷に帰れたらマゲを切ってお供えします」と神に祈った大事なマゲだったのです。でも航海士は頓着なくせっせと髪を刈り込むと、香のいい油をすりこんで得意そうに微笑みました。
  神様との約束を守れなかったことが悲しく、ヒコは心の中で一心に許しを乞いました。もし言葉がわかったら、こんな間違いは起こらなかったはずです。ヒコは船員たちと意思を通じあえるように、言葉の勉強をしようと決心しました。

【サンフランシスコに到着】

  1851年3月4日、救助されてから42日目に「オークランド号」はサンフランシスコ沖に着きました。港の入り口に入ると小舟が寄りそってきて、身なりのよい男が乗り込んできました。船長は男と握手して厚い書類の束を受け取ると船の操作をまかせ、自分は熱心に書類を読みながら部屋にもどっていきました。後にヒコは、それが航海中に発行された新聞だったことを知りました。
  なお、現地の『デーリー・アルタ・カリフォルニア』紙は、翌日の3月5日付の新聞で、「オークランド号」が日本の「栄力丸」の漂流民17名を救助したことを報じ、「軍艦で日本に送り返して日本政府に開国を申し入れるべきだ」と論じています。当時アメリカでは、すでに日本の開国を求める声が高まっていたことがわかります。

  数日後、漂流民は舞踏会に招かれ、「ヒゲを剃って日本の着物を着て」2階建てのレンガ造りの建物に到着しました。2階の12畳敷きくらいの部屋に案内されてソファーに腰を下ろそうとすると、おや、向こう側にも着物姿の日本人がずらりと並んでいます。「これはこれは」と挨拶しながら近寄ってみると、それはなんと大きな鏡に写った自分たちでした。
  部屋の外から太鼓や鐘を叩くやかましい音が聞こえてきました。一同は芝居小屋の舞台のようなところに連れていかれ、長い腰掛にすわらされました。前にカーテンがかかっています。さては見世物にされるのかと、初めて気がつきました。
  腹を立てて帰ろうとする者もいたのですが、船頭の万蔵は「我慢しろ。命を救われてこれまで親切にしてもらったのだ」といってなだめました。カーテンがさっと開きました。
  目の前に大勢の観客の顔がありました。みな好奇心いっぱいで舞台を見つめながら、笑ったりささやき合ったりしています。すると、下で何かしゃべっていた男が、降りてくるようにと手招きしました。みなそれぞれ指示に従って会場に散らばっていきました。
  ダンスが始まりました。ヒコは若い男に導かれるまま、あちこち歩きました。着飾った人々は近くに寄ってきて顔をのぞきこんだり、着物にさわったりしています。銀貨や指輪やネクタイピンなどを握らせてくれる人もありました。ダンスをした仲間もいたようです。
  夜おそく、一同は階下の食堂で夕食を振舞われました。ほかの者たちも、銀貨や装飾品などをもらっていました。最初の不愉快な思いは消え、笑顔がもどっていました。アメリカ人というのは驚くほど率直な人間で、彼らなりのやり方で好意を表してくれたのだということを理解したのです。これはチャリティの仮装舞踏会だったということです。


【「セント・メリー号」で故国に向う】

  しばらくして一同は「オークランド号」からサンフランシスコ税関の監視船「ポーク号」に移りました。アメリカ政府は、いずれ漂流民を軍艦に乗せて帰国させ、和親条約を結ぶきっかけにしようという方針を立て、政府の費用で丁重に扱うことにしたのです。「ポーク号」では食事もよく、乗組員は親切で、みな金ボタンの制服も支給されました。
  体の大きな衛兵伍長トマス・トロイは、学校の地理の授業で日本のことを学んでから大の日本びいきになり、いつか日本へ行きたいといっていました。それでヒコと、お互いの言葉を教えあうことにしました。しかし仲間の中には、英語を覚えると帰国したとき投獄されると恐れる者があり、万蔵まで「もしヒコが英語を学んだことがわかると全員が罰せられる」と戒めます。仕方なく、ヒコはトマスに日本語を教えるだけで我慢しました。
  1年近く経った翌年の2月、サンフランシスコ港にアメリカの軍艦「セント・メリー号」が入港しました。船体は真っ黒で「ポーク号」よりはるかに大きく、大砲22門を備えています。ヒコたち日本人漂流民を本国に送り返すために派遣されたということで、みな歓声を上げましたが、詳しい話を聞くと不安も大きく広がりました。
  一同は「セント・メリー号」に香港まで送ってもらい、そこで後からやってくるペリー提督の日本遠征隊を待って、ペリーと一緒に日本に行くのだそうです。開国を求めるアメリカの軍艦に乗って帰国したら、どうなるでしょう。交渉の取引に使われることになるのではないか。でも、いまは運命に従うほかありません。心強いことに、かなり日本語の上達したトマスが、給料の安い水兵の身分となって急きょ同行してくれることになりました。
  1852年3月13日、「セント・メリー号」は、故国に思いをはせる「栄力丸」の漂流民を乗せ、香港に向ってアメリカを後にしました。



参考文献(全編共通)

“The Narrative of a Japanese” Vol.1,2 by Joseph Heco, edited by James doch. American-Japanese Pu. 1890
『アメリカ彦蔵自伝』1,2  中川努・山口修訳  平凡社  1964
『開国逸史  アメリカ彦蔵自叙伝』  土方久徴・藤島長敏共訳  明治文化研究会編(ぐろりあそさえて昭和7年原本)ミュージアムアム図書発行  平成10年
『クリスチャン  ジョセフ彦』近森晴嘉  アムリタ書房  昭和60年
『アメリカ彦蔵』吉村昭  新潮社  平成13年
『ヒコの幕末』山下昌也  水曜社  2007年
『開港場  横浜ものがたり』編集・発行横浜開港資料館・横浜市歴史博物館  1999年
『ペリー来航と横浜』編集・発行横浜開港資料館  2004年
『港都横浜の誕生』石井孝  有隣堂  昭和51年
『タウンゼンド・ハリス――教育と外交にかけた生涯』中西道子  有隣堂  平成5年
『ドクトル・ヘボン関連年表』石川潔著作・発行  1999年



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