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[第14話] 新しい時代の始まり

【明治新政府の誕生】
1868年10月、混乱の中で始まった明治の時代の最初の課題は、新しい国のシステムを作ることでした。封建制度から脱却して新しい統一国家を作るためには、各藩が所有しているものを、ひとまず政府がすべて取り上げる必要があります。
その年の暮、姫路藩(ヒコの故郷の藩)主の酒井忠邦が「新しい国家作りのために版籍(藩の土地や人民)をすべて朝廷に奉還する」と提案。木戸孝允はただちにこの案を取り上げ、まず自分の藩の長州藩主毛利敬親を説き、続いて薩長土肥の4藩主に働きかけます。すると4藩主はこれに賛成して連署し、提案書を朝廷に差し出しました。その結果他の藩主もこれにならい、翌1869年7月にはすべての藩が版籍を朝廷に奉還し、藩主は藩知事に任命されました。
また、6月27日には箱館の五稜郭に立てこもった榎本武揚ら幕府側の軍勢が降伏し、1年半におよぶ戊辰戦争が終結しました。
新政府の要人となった木戸孝允、伊藤博文、井上馨らは、維新後もヒコと交流を続け、助言を求めてきました。ヒコはこれまでの経験により、国の事業には予算の裏づけが必要なこと、貿易を盛んにするために通貨を統一すること、産業を興すために株式会社を奨励することなどを説き、国家の統一には鉄道と通信網、銀行の整備が欠かせないことなどを提案しています。
1869年7月、ヒコはグラバーからの話を受けて香港の造幣局の施設を買収、大阪造幣局を設立するのに尽力しました。その後井上馨が造幣寮の頭取になります。
1870年1月、東京横浜間に電信が開通しました。
【ヒコ、故郷を訪問】
話は少しもどります。1868年の夏、ヒコが大阪に行ってしばらくしたころ、京都の佐賀藩邸から、前藩主鍋島直正公のリューマチが悪化したので外国人医師を紹介してほしいとの依頼があり、ヒコはアメリカ軍艦の軍医を連れて佐賀藩邸を訪ねました。軍医の薬の効き目はすばらしく、藩公はすぐに気分がよくなって翌日にはヒコにいろいろ外国事情をたずねるほどになりました。前年ヒコが長崎に行ったとき、急な上京で会えなかったのを残念がっていたのです。数日すると佐賀に帰れるようになり、大いに感謝されました。
ヒコが大阪に帰ると間もなく伊藤博文がやってきて、屋形船での川遊びにさそいました。戦場は東北に移っていて、京都・大阪のあたりは落ち着きをとりもどしています。戦局や政治を論じ、世間話から故郷の話になったとき、ヒコが、13歳のとき故郷を離れてから訪れていないので一度行ってみたいというと、伊藤は「それなら便宜をはかろう」といってくれました。ヒコは「アメリカ人」なので、自由に動ける範囲は開港場の役所から7里四方に限られています。故郷の播磨国小宮は開港場の兵庫からずっと遠くにあります。
伊藤は、船で行くことを提案しました。翌日、政府用の蒸気船「オーファン号」で兵庫へ行く予定だから一緒に行こうというのです。「外国人でも海の上の航行は自由だ。蒸気船からボートで村の浜に上陸すればよい」とのことです。
ヒコは思いがけない申し出に胸をおどらせて翌日大阪支店長に休暇の許可をもらい、そのまま「オーファン号」に乗り込みました。ところが、神戸近くまで来たとき、機関が故障して船が止まってしまいました。仕方なくその晩は船に泊まり、翌朝小船に乗り換えて神戸に上陸。ヒコの旅はやむをえず陸路でということになりました。
伊藤は兵庫県庁に行って、ヒコの通行免状を作成するよう係員に指示し、陸路には危険が伴うので武装した数名の役人を同行させるよう手配しました。いろいろな手続きに手間取ってその晩はホテルに宿泊。するとその話が居留地の外国商人たちに伝わり、ぜひ一緒に行きたいとせがむ者が現れました。伊藤は武器の輸入で世話になったこともあり、結局4人分の通行免状を追加しました。
翌朝、県知事の伊藤の見送りを受け、数名の護衛のついた5台の駕籠(かご)の行列が県庁前を出発しました。空には雲ひとつなく、真夏の太陽が照りつけています。道行く人びとは初めて見る外国人(ヒコもそのひとり)の駕籠の行列に驚き、立ち止まって見送りました。
故郷に近くなり、左手に海が見えてきました。なお進むと、沿道に晴れ着を着た人びとが大勢並んでいます。伊藤が前もって故郷の役場にヒコの帰郷を知らせ、丁重に迎えるよう指示していたのです。でも村人の多くはひどくやせていて表情はさえず、おびえたように何かささやきあっています。ヒコが挨拶すると、ぎこちないお辞儀が返ってきました。
18年ぶりに故郷の村を目にしたヒコも、あまりの変わりように呆然としていました。記憶の中では立派だった家々が、なんとみすぼらしいことか。屋根が傾いて廃屋のような家もあります。道も、もっときれいで広かったはずなのに・・・
行列は庄屋の家の前で止まり、一同は駕籠を下りました。正装で出迎えた庄屋たちにヒコが挨拶すると、みな言葉少なにお辞儀をして家の中に案内しました。ヒコの顔見知りの人はだれもいません。
庄屋の家で歓迎の宴会が始まりましたが、会話も途切れがちで、ヒコはどうしようもない居心地の悪さを味わっていました。村人がぽつりぽつり語るところによると、村にはむかし62戸あったのに、いまは30戸とのこと、たしかにさびれていたのです。美しい故郷だと道々自慢していたヒコは、外国商人たちに対しても気恥ずかしく、滞在の予定を切り上げて翌日早々に村を離れました。
【母の墓を建てる】
ほろ苦い思い出となった故郷の訪問。しかし急いで引き上げたため、母の墓参りをしなかったことに悔いが残りました。そもそも墓があるのかどうかもわからず、母のために墓を建てたいという気持ちが日に日につのりました。
1870年には、ヒコは大阪からまた長崎にもどっていましたが、手広く商売をしていたグラバー商会が7月に突然倒産し、ヒコは職を失いました。戊辰戦争が終わって武器の注文がなくなった上に、武器や艦船の貿易の売掛金が回収できなくなったのです。
そんなこともあってヒコはまた故郷を訪れる気持ちになり、10月の末、長崎からアメリカの汽船で兵庫へ。外国人通行免状をもらうため兵庫県庁へ行くと、伊藤博文は中央政府の要職につくため東京に転任していましたが、副知事がすぐに許可してくれました。
ヒコは駕籠をやとってひとりで故郷に向い、庄屋の家を訪れました。連絡を受けたヒコの叔母もここで待っていました。母が亡くなったあと何かと世話をしてくれたなつかしい叔母ですが、見かけは外国人のようなヒコに戸惑い、「すっかりご立派になって・・」とくりかえすばかりです。
それでも母のことなど話し合ううちに打ち解けて、この前は急だったので会えなくてすまなかった、母を埋葬したところには石が置いてあるだけ、などと話してくれました。
ヒコは叔母と連れ立って菩提寺の蓮花寺を訪れ、住職の案内で母を埋葬した場所にお参りしてから墓の建立について相談しました。住職はヒコの計画を聞くと、このあたりで最も腕がよいといわれる石工の石寅を紹介してくれました。
ヒコは碑の表面に母と義父、それに祖先の戒名を刻み、裏に英語で「両親と家族のためにこれを建てる」と書き、by Joseph Heco とすることを伝えました(Hicoだとハイコと読まれるので、こう書くことにしています)。石寅は初めて見る英語にたじろいだ様子でしたが、字の形を念入りに確かめて引き受けてくれました。
ヒコは晴れやかな気分で長崎にもどりました。グラバー商会の仕事はなくなっても長崎での貿易は相変わらず盛んで、ヒコのところにはいろいろな仕事が舞い込んできます。
新政府がようやく動き出したこのころには、新しい制度や改革が次々と実行されました。
1871年6月には新貨条例が定められ、円、銭、厘の10進法をとることが決まります。8月になると廃藩置県の詔書が出されました。
9月に入って、ヒコは姫路藩の元藩主・酒井忠邦県知事から、直筆の手紙を受け取りました。「廃藩置県により華族として東京在住がきまったので、出発前に外国事情を聞きたいから、神戸の藩邸に訪ねてきてくれるように」とのことです。西洋文明に強い関心を持つ若い元藩主は、アメリカ通として名高いジョセフ・ヒコが自藩の出身と知り、ぜひ会いたいと思っていたのです。ヒコは殿様のお召しとあって感激し、ただちに汽船で参上しました。待ちかねていた忠邦はヒコを親しくもてなして、的確な質問をしながら話に耳を傾け、大いに満足してヒコに金25両をそえ定紋入りの羽織地を差し出しました。これは功績のある者に与える勲章のようなもので、非常に名誉なことです。さらにヒコは「県の役人たちにも話を聞かせてやってほしい」と頼まれ、喜んで承知しました。
数日後、ヒコは数人の役人と駕籠を連ねて姫路に出発。姫路では3名の世話係りがつき、最上級と思われる座敷に通されました。そのあと白鷺城として知られる美しい姫路城に案内されました。いくつかの小門をぬけて城の入り口から階段を登り、最上階の座敷へ。ここは数十畳の広さで、壁をうがって四方にあけられた窓からの景色は絶景でした。東にはゆるやかに起伏する丘陵を背に一筋の川が流れ、南には小島の浮かぶ海。ヒコは夢心地でした。船乗りの子の自分がお城に登っているなど、ありえないことなのです。
ヒコは毎日歓待を受け、大勢の役人が集まる広間でアメリカでの体験や文明事情を語りました。目を輝かせた聴衆からは活発な質問も出て、ヒコはていねいに答えました。
3日ほどすると、知事代理の招きで盛大な宴が開かれました。重要な位置にある役人すべてが列席し、ヒコは最上席に案内されました。自分の藩の高位の藩士より上席に着くなど滅相もない、とまた船乗りの子の意識が働いて固辞しますが、藩公の賓客だからと聞き入れられません。ヒコは胸を熱くしてその好意を受けました。
10日ほど滞在した後、また数人の役人に随行されて帰路につきました。ヒコは兵庫に帰る途中、故郷に立ち寄ることにしていました。注文した墓ができたとの連絡を受けたので、除幕式の宴会の準備をするよう叔母に頼んでおいたのです。
叔母の案内で蓮花寺に行くと、墓は立派に完成していました。碑面には母と義父と祖先の戒名が刻まれ、裏には指定した通りの英文がみごとに彫られています。
法衣をつけた住職が墓前で読経し、除幕式は終わりました。ヒコはこれで母と義父に対する供養ができたことを喜びました。この墓は「横文字の墓」として親しまれています。
そのあと庄屋の家で、村の主立った人びとや親戚、随行の役人を招いて宴会が開かれました。ヒコは墓が無事に建立したことに感謝を述べ、次に元藩主に招かれた一部始終を報告して下賜された定紋入りの羽織を披露しました。客は感嘆の声をあげ、おそるおそる近づいてきて拝見しました。
ヒコは、最初の訪問が気まずい形で終わっていたので、なんとか村人とよい関係を作っておきたいと思っていました。殿様から拝領した羽織を披露したのも、自慢するためではなく、同郷の者として認めてもらいたかったからです。ともあれ、母や義父に対しての思いを果たし、ヒコは心残りなく故郷を後にすることができました。
【大蔵省に入る】
1872年(明治5)夏、ヒコは大蔵大輔(たいふ・大臣代理)となった井上馨から、大蔵省で仕事をしてほしい(月給250円)との手紙を受け取りました。いよいよ中央政府に招かれ、日米の架け橋として働くときがきたと思うと胸がおどりました。上京の準備を進めているとき、西部地方を巡察される天皇の長崎行幸がありました。沿道には土下座をするためのムシロを持った民衆が並んでいます。ところが天皇の列が近づくと近衛兵は「起立!」と号令。人びとは狼狽して命令に従わない人も。時代は少しずつ変わっていました。
東京に行く途中横浜に立ち寄り、今度神奈川県令になった長崎での友人大江卓を訪ねました。大江は晩餐に招待し、その前に新しい横浜を馬車で案内してくれました。道が格段によくなっています。1866年の大火で焼けた運上所は「横浜税関本局」と名前を変えて洋風の建物になり、その前の広い道路はいっそう広くなりました。野毛町の海岸は埋め立てられて鉄道の駅舎が建っています。さらに神奈川青木町の海岸も埋め立てられ、鉄道のレールが敷かれて横浜―品川間の仮営業が始まっています。ヒコは自分のこれからの仕事を思い、日本の近代化が着々と進んでいるのを見て、心が高揚してきました。翌朝ヒコは汽車で横浜を発ちました。(鉄道はこの年の10月14日に新橋―横浜間が開業)
このころ大蔵卿(大臣)の大久保利通は、前年11月、新しい国家のあり方を学ぶため岩倉具視の欧米使節団に副使として加わって留守。木戸孝允と伊藤博文も同行していました。
ヒコは神田にある大蔵省に出勤すると紙幣寮に配属され、大蔵大丞(局長)の渋沢栄一と共に「国立銀行条例」の編纂にあたりました。渋沢は徳川昭武のパリ万国博使節団に随行し、そのままパリに留まって株式会社による大規模企業の方式を学んできました。渋沢は元攘夷の志士で、外人襲撃を試みたことがあり、「ヒコを狙っていた者を知っている」と告白します。先日横浜でもそんな話を聞かされ、ヒコは改めて自分がどんなに危険な立場にあったかを思ってぞっとしました。「国立銀行条例」は12月に完成し、公布されました。
1872年12月9日(旧暦11月9日)、旧暦を廃止して太陽暦を採用することが布告され、12月3日が明治6年元旦となりました。
大蔵省で仕事を始めて数ヵ月、ヒコは財政に対する政府の認識がきわめて低いことに驚くばかりでした。拡張する一方の政府の事業に対して各省は必要なだけ資金を要求し、大蔵省はこれに応じています。歳入と歳出のバランス感覚がないのです。
井上馨はこれを改善するため、財政に明るい渋沢を起用して予算制度の確立にとりくみ、ヒコもこれを手伝いましたが、「国家の事業のために必要」とする各省からの要求は激しく、健全財政を掲げる井上と対立します。翌年5月、ついに井上と渋沢は退官しました。
日本各地で新政府への人びとの不満が火をふきだした中、岩倉使節団が9月に帰国しました。政治の世界が大きく動きはじめ、富国強兵をめざす殖産興業に拍車がかかります。
ヒコは大蔵省に残ったものの、仕事は事務的な雑用ばかりでした。藩閥で固められた政府には、予算のあり方や政策を提言するような場はなく、そうしたポストにつける望みもありません。それに、このころには優れた知識や技術を持ついわゆる「お雇い外国人」の数もふえ、留学帰りなどで語学の堪能な人も役所に目立ってきました。ヒコはここでの仕事に限界を感じ、翌年退職しました。
【よき伴侶と浜田彦蔵】
大蔵省を辞めてからしばらくして、ヒコは子どものときからの夢だった東海道の旅に出ようと思い立ちました。使用人と2人、話に聞く名所を訪ねながら徒歩で神戸までという旅は快適でした。特に心を惹かれたのは、20年ごとに再建するため「いつも古くて新しい」伊勢の大神宮の質素で荘厳な美しさです。日本人であることを再確認した思いでした。
神戸では日本人の友人に実業家の北風荘右衛門を紹介され、銀行経営に加わってほしいと頼まれました。ヒコは来年からの約束で、ひとまず横浜に帰りました。
1875年(明治8)5月1日、船で神戸へ。北風と相談の結果、お茶の輸出のため神戸に支店を出すことになりました。この商売はその後詐欺事件に巻き込まれたりしますが、ともかくは順調に運び、ヒコは神戸に落ち着きました。翌年北風は事業から手を引き、ヒコは単独で経営することになります。
この仕事を通してヒコは松本七十郎の娘の鋹子と知り合い、翌年結婚しました。ヒコ39歳、鋹子18歳。松本七十郎は北白川宮能久親王(上野寛永寺の輪王寺宮)の近臣です。
鋹子夫人は1879年、播磨国小宮の、絶家となっていたヒコの実父・浜田長蔵の跡を継いで浜田家を再興しました。ヒコはその夫として浜田彦蔵と名乗り、日本人にもどったような安らぎを覚えました。日本には帰化法がなく、日本国籍にもどれなかったのです。
ヒコは年齢の離れた夫人を気遣い、1886年には鋹子夫人の姪の松本吉子を養女に迎えて一緒に住むようになりました。ヒコは家族と共におだやかな生活を送りますが、翌年一家は東京に出て小石川の新居に入りました。
ヒコは鹿鳴館で象徴されるような行き過ぎた洋風化に批判的で、晩年は和服で正座して習字をするなどの生活を愛し、本所横綱町の閑静な屋敷町に転居しました。ここには日本人の家を知りたいという外国人がよく訪れ、ヒコは喜んでもてなしました。
1892年および95年、『ナラティヴ・オブ・ア・ジャパニーズ』(『アメリカ彦蔵自伝』)の上・下巻を、それぞれ丸善から出版しました。
1897年(明治30)12月12日、ヒコはしばらく前から患っていた心臓の発作で永眠しました。享年60歳でした。
福沢諭吉はその死を悼んで『時事新報』に次のように書いています。「‥ジョウセフ彦は、維新前後名高かりし播州彦のことなり‥日米条約締結の際より引き続いて維新前後、内外との間に介して大いに国家の為め尽力せり‥」(『時事新報』明治30年12月18日)
翌年12月、鋹子夫人の手で青山霊園の外人墓地に墓碑が建てられました。碑面には、上部に英文でジョセフ・ヒコの墓であることが記され、その下に「浄世夫彦之墓」と刻まれています。日本の「帰化法」が成立したのは2年後の1899年でした。
ジョセフ・ヒコは運命のいたずらで日本の国籍を失いましたが、日本人の心は決して失いませんでした。最初の帰国から4年後に出版した『漂流記』の結びに書いているように、「やがては日本国籍にもどり、アメリカと日本のあいだで両国のために力を尽くし、国恩に報いる」ことを使命と考えていたのです。
同じ幕末の漂流民でも、帰国後は幕府の役人となった中浜(ジョン)万次郎は一般によく知られていますが、ジョセフ・ヒコを知る人は少ないのを残念に思い、この欄で取り上げました。最後までお付き合いいただき、ありがとうございました。
なお、ジョセフ・ヒコが『海外新聞』を発行した場所として、横浜中華街に「日本における新聞誕生の地」という石碑が建っています。中華街の関帝廟隣にある中華学校前の歩道の植え込みにあります。散歩の折などにおたずねください。

参考文献
“The Narrative of a Japanese” Vol.1,2 by Joseph Heco, edited by James doch. American-Japanese Pu. 1890
『アメリカ彦蔵自伝』1,2 中川努・山口修訳 平凡社 1964
『開国逸史 アメリカ彦蔵自叙伝』 土方久徴・藤島長敏共訳 明治文化研究会編(ぐろりあそさえて昭和7年原本)ミュージアムアム図書発行 平成10年
『クリスチャン ジョセフ彦』近森晴嘉 アムリタ書房 昭和60年
『アメリカ彦蔵』吉村昭 新潮社 平成13年
『ヒコの幕末』山下昌也 水曜社 2007年
『開港場 横浜ものがたり』編集・発行横浜開港資料館・横浜市歴史博物館 1999年
『ペリー来航と横浜』編集・発行横浜開港資料館 2004年
『港都横浜の誕生』石井孝 有隣堂 昭和51年
『タウンゼンド・ハリス――教育と外交にかけた生涯』中西道子 有隣堂 平成5年
『ドクトル・ヘボン関連年表』石川潔著作・発行 1999年
『伝記 ペリー提督の日本開国』サミュエル・エリオット・モリソン 座本勝之訳 双葉社 2000年(第4話より追加)
『漂流――ジョセフ・ヒコと仲間たち』春名徹 角川書店 昭和57年(第4話より追加)
『咸臨丸還る 蒸気方小杉雅之進の軌跡』橋本進著 中央公論新社2001年(第10話より追加)
『新訂 福翁自伝』福沢諭吉著 岩波文庫 2002年(第10話より追加)
『ジョセフ彦 海外新聞』ジョセフ彦記念会編 早稲田大学出版部 昭和52年(第12話より追加)
『横浜から新聞を創った人々』山室清 神奈川新聞社 2000年(第12話より追加)
『ジョセフ・ヒコの日本改革建言草案』佐藤孝 横浜開港資料館紀要第4号 昭和61年3月 横浜開港資料館(第13話より追加)
『日本の近世』⑱近代国家への志向 田中彰編 中央公論社 1994年(第13話より追加)
『幕末史』半藤一利 (株)新潮社 2008年(第13話より追加)
