English Garden
[第1話] 9年ぶりの帰国

【開港前夜】
1859年7月1日(安政6年6月2日)、前年に結ばれた「日米修好通商条約」により、神奈川が開港場として正式に開港することになりました。
その前日の6月30日、アメリカの軍艦「ミシシッピー号」が、新たに駐日公使に就任するタウンゼント・ハリスと、神奈川領事館に駐在するドール領事を乗せて神奈川沖に入港し、投錨しました。艦の上からは、入り江と運河で囲まれた対岸の横浜側で、家の普請がさかんに行なわれているのが見えます。間もなく税関の役人が来航の目的をたしかめるためやってきて、艦長と挨拶を交わしました。
役人たちが帰ると、領事は声をひそめて公使にささやきました。
「ハリスさん、神奈川の対岸の平地に家がどんどん建っていますね。日本政府はあそこを第二の出島にして、我われを隔離しようというのでしょうか。とても承服できませんね」
「もちろんですとも。条約には、開港場は『神奈川』と明記されているのだ。あなたはここの領事となるのだから、しっかり頼みますよ」
2人のあいだでは、こんな話が交わされました。実はこのときもう1人の人物が同席していて、このあたりの様子をしっかりと記録していたのです。それがこの話の主人公である22歳のジョセフ・ヒコでした。
次に外国奉行の酒井隠岐守が、公使および領事に敬意を表するために来艦しました。このときハリスはジョセフ・ヒコについて、「日本の漂流民であるがいまは帰化してアメリカ市民となっているから、以後アメリカ人として扱ってもらいたい」と要請しました。ヒコにとって、緊張の瞬間でした。奉行は通詞の言葉を聞きながらじっとヒコを見つめていましたが、静かにうなずいて要請を受け入れ、記録しました。これでジョセフ・ヒコは正式に領事館のアメリカ人通訳として、母国に認められたのです。
ところで、条約で開港場と決められた「神奈川」とは、川崎と保土ヶ谷のあいだに位置する東海道の宿場町の名前で、交通の頻繁な所です。
1859年といえば、いわゆる幕末の混乱の只中です。黒船で来航したペリーに、5年前強引に「日米和親条約」を締結させられてから、国内は「開国」と「攘夷」をめぐって激しい争いが続いていました。特に前年、江戸幕府の大老井伊直弼が勅許を待たずに日米通商条約を結んだため、騒ぎは大きくなりました。「神聖な国土を汚すな」「外敵を打ち払え」と叫ぶ朝廷を中心とする勢力が、激しい尊皇攘夷運動を展開したのです。これに対して幕府側は弾圧を加え、「安政の大獄」と呼ばれる陰惨な事件が起こったばかりでした。
そんな時期に外国人の居留地を交通の要所に作ったら、とても彼らの安全を守れません。そこで幕府は、少し離れた寒村の横浜を「神奈川」の一部に含めてここを開港場とし、外国人居留地を設けることに決めたのです。横浜の海は神奈川の海よりも深く、大型船の入港に適しているのも事実でした。
ちょうど開港を前にして総領事だったハリスが健康を損ね、療養のため2ヵ月ほど上海に行ったのを幸い、幕府は昼夜兼行の突貫工事で海岸に波止場を構築、海岸に沿った地域を整地して中央に広い道路を通し(現在の日本大通り)、東側に外国人居留地、西側に日本人町を作りました。そして東側にはまず領事館を建て、西側には役所や役宅や商店を建てて日本人の商人を呼び寄せ、横浜を「港町」に仕立て上げたのです。ハリスたちが来たときは、まだ準備の真っ最中でした。
【いよいよ開港】
翌7月1日、神奈川奉行が領事館の場所について打ち合わせをするため「ミシシッピー号」にやってきて、領事と面談しました。しかし、奉行が
「領事館用の建物は横浜(クロス・ビーチ)の海岸に用意してあります」
というと、領事は顔をしかめて、
「領事館は条約の条件通り、神奈川に置きたい」
と主張しました。そして翌日、役人と通訳を同行させて自ら場所さがしに出かけ、神奈川の本覚寺に決めてきました。この寺は船の発着所に近い高台にあり(現在の京浜急行線「神奈川駅」前、青木橋の傍)、西側には東海道が通っています。
さてヒコは1日の午後、士官たちに買い物の手伝いを頼まれ、艦からボートに乗って横浜村の船着場に上陸しました。
士官らを連れて町に入ると、まず中央の大通りに面した運上所に行ってドルを日本の貨幣に交換させました。運上所より東はまだ畑の中に家が点在する淋しい村で、領事館用の建物が目立つくらいですが、西側の日本人町のほうは道路の両側に新築の店が軒を連ね、漆器や陶磁器、呉服、日用品などさまざまなものを売っていました。
まだ建築中の家もいたるところにあって、あちこちで金槌の音が響いています。ヒコは士官たちの相談にのって、買おうとしている品物を吟味したり、商人と値段の交渉をしたりしました。しかし、実際にお金を払う段になると、通貨の交換状態が不安定で非常に割高になっていることがわかり、ヒコはあまり急いで買わないよう仲間に忠告しました。店の人は、洋服を着たヒコの話す日本語に驚いている様子でした。
ヒコはようやく日本語を話せることが嬉しくてたまりませんでした。いま踏んでいるのは、9年ぶりの日本の大地です。この祖国で日本語を話すことを、どんなに長いこと夢見てきたことでしょう。ヒコは日本語と英語を忙しく使い分けているうちに気分が高揚し、これから日本とアメリカの架け橋として働くことを思って胸をふくらませました。
【アメリカ領事館開く】
7月4日、アメリカ領事館が独立記念日に合わせて開館し、貿易が開始されます。好天に恵まれ、湾内に停泊するすべての船のマストには早朝から旗が飾られていました。
ヒコはハリス公使、ドール領事、艦長ニコルソンと士官たち、領事館書記で親友のヴァン・リードと共にボートで神奈川に上陸し、役人の案内で本覚寺まで歩いていきました。
神奈川の海と横浜の町を一望におさめるこの高台は、すばらしい景勝地です。寺はすでにきれいに引き払われていました。門を入ったところに大きな松の木があったので下枝を払い、てっぺんの枝に旗竿を結びつけました。
正午にアメリカ国旗を高く掲げると、港内の艦船から祝砲がとどろきました。一同はシャンパンを抜き、「アメリカ国歌」を合唱して乾杯しました。
その日からヒコは、ドール領事、ヴァン・リードと共に本覚寺で暮らすことになりました。ハリスは翌日上京して公使館を麻布の善福寺に開き、イギリスの総領事オールコックは高輪の東禅寺に総領事館を開設しました。
幕府はまた、アメリカに続いて通商条約を結んだ他の国々にも、神奈川領事館として神奈川にある寺院を提供しました。幕府から明け渡しを命じられた寺の中には、屋根をはがして「修理中」といって断った例(良泉寺)もあったそうです。
京浜急行線「神奈川駅」から「神奈川新町駅」までの沿線およびその周辺には、当時の歴史に関わる数々の寺院や史跡があります。現在では「神奈川宿歴史の道」として整備され、人気の散歩道となっています。
参考文献(全編共通)
“The Narrative of a Japanese” Vol.1,2 by Joseph Heco, edited by James doch. American-Japanese Pu. 1890
『アメリカ彦蔵自伝』1,2 中川努・山口修訳 平凡社 1964
『開国逸史 アメリカ彦蔵自叙伝』 土方久徴・藤島長敏共訳 明治文化研究会編(ぐろりあそさえて昭和7年原本)ミュージアムアム図書発行 平成10年
『クリスチャン ジョセフ彦』近森晴嘉 アムリタ書房 昭和60年
『アメリカ彦蔵』吉村昭 新潮社 平成13年
『ヒコの幕末』山下昌也 水曜社 2007年
『開港場 横浜ものがたり』編集・発行横浜開港資料館・横浜市歴史博物館 1999年
『ペリー来航と横浜』編集・発行横浜開港資料館 2004年
『港都横浜の誕生』石井孝 有隣堂 昭和51年
『タウンゼンド・ハリス――教育と外交にかけた生涯』中西道子 有隣堂 平成5年
『ドクトル・ヘボン関連年表』石川潔著作・発行 1999年
