郷土の三英傑に学ぶ


◆第5章◆ 郷土の三英傑に学ぶ経営戦略

- 信長、「天下布武」のビジョンを示す -

ieyasu
三英傑が活躍した時代を現代では「戦国時代」と呼んでおります。
ところで当時の人々は自分が生きている時代をどう認識していたのでしょうか。

●皆、戦国時代だと知っていた

教養人は隣の中国の歴史を一般常識として学んでおりました。つまり秦の始皇帝による統一が成し遂げられる前、群雄割拠していた時代を春秋・戦国時代と知っていました。

応仁の乱により、既存の権威が凋落します。下が上に剋(か)つ、下剋上の風潮が強まり、実力本位の社会が到来します。今は中国の群雄割拠の時代と同じということで、当時の人々は「戦国の世」と時代認識していました。  

実際に、武田信玄の甲州法度には「天下戦国の上は、諸事をなげうち武具の用意肝要たるべし」という条目があり、今は戦国であると記されています。

●ビジョンを作る  

群雄割拠の戦国時代に急速に成長していたのが織田信長です。尾張統一が終わり、長年の懸案であった美濃の攻略に成功しました。以前のように今川義元に攻め込まれるような弱小企業から脱皮したことになります。

創業後の不安定なアーリーステージを脱却し、企業を発展させていくミドルステージへ移行し始めた時期となります。  

今までは織田家の経営資源をフル活用して事業拡大を行えばよかったのですが、これからは織田家以外の他国とのコラボレーションなど様々な経営戦略が必要となってきます。そこで経営戦略の基本となるビジョンを作ることになります。

●天下布武の宣言  

美濃の稲葉山城を落とした織田信長は禅僧「沢彦(たくげん)」と相談し、周の始祖である文王が岐山で挙兵し、やがて天下を平定した故事にならい岐阜と改名しました。  

そして「天下布武」のビジョンを打ち出し、「武力をもって天下を平定する」と宣言しました。つまり戦国の世を終わらせるというアピールです。天下平定を目指すのは、この信長であり、上杉謙信や武田信玄と天秤にかけようとしていた足利義昭への牽制を行いました。  

信長は楽市楽座による市場経済への移行、足利幕府の権威の否定や強大な勢力をもつ寺の排除など新しい秩序構築を行っていきます。旧来の秩序を大切と思う部下もいましたが、天下布武で戦国の世を終わらせるには必要不可欠と、信長の天下平定に向かって皆がベクトルをあわせます。  

ビジョンがなければ皆の力が色々な方向に分散してしまいます。信長は「天下布武」というビジョンで皆を一つにたばねました。そして「天下布武」は努力目標ではなく、信長のコミットメントでした。ですから部下も信長についていきました。

●織田幕府?  

天下平定が秒読みに入った信長に対し朝廷から「太政大臣、関白、征夷大将軍にいずれかに推挙したい」と打診がありました。ところが信長が明確な返事をしないまま「本能寺の変」を迎えてしまいます。  

朝は家中の誰よりも早く起き、一人熟慮して戦略を決めていた信長です。「天下布武」が実現した後の信長の次のビジョンをぜひ見てみたかったですね。

水谷哲也
※三英傑のイラストは、原田弘和様にご提供いただきました。無断で転載することは禁止されております。

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